2015年3月5日(八段語録2343)
稽古の意義

 最近の道場生に言えることですが、真剣に稽古に臨む姿勢が足らないという事です。私の青春は、極真の稽古と共にあったのです。それは毎日が真剣でした。そうこうしているうちに還暦を越えるのですから先の人生は短いのです。私が動けなくなる前に、極真の稽古の伝統を指導者に伝えなければならならないという気持ちが沸き上がってきます。この極真の稽古の伝統を指導者に示さなければ、死んでも死にきれないという気持ちになるのです。私は、真剣に稽古をしてきたのです。誰もが、私が指導する姿に迫力を感じたものです。それだけ、その時の道場生は深刻に稽古を受けたのでした。もちろん、稽古で骨折した人も数限りないのです。道場生との絆は稽古で連結されるのです。稽古に入る前に準備してくるようになれば、稽古そのもので感動を受けるのです。そして、自分の課題を繰り返し復習することによって、新たなる道を開拓するようになるのです。
 さて、前に立って稽古をすると指導者の指示に従って、完全な主体に前に完全な対象に立つという現象が現れます。それゆえに、指導者の質が問われるのです。道場生が完全な対象圏に立つと、それは不思議な力が道場に顕現します。一般の空手道場では、そのようなパワーは動員されないのです。それは、指導者が最前線にいる為に、力の源が現れるようになるというのです。私の稽古指導は半端では無かったという事です。実践の中の実践史であるが如くです。道場生が真剣になるので、興奮もするようになるのです。私との稽古をすると、何か普通の稽古と違うというのです。困難を乗り越えてきた私の稽古なので、誰もが驚くのです。その内容を伝統として受け継ぐことができる指導者を作りたいというのが私の願いでもあるのです。
 ところで、私の稽古は、もう四十年以上も経過しているのです。道場生と共に一体的に動と静を連結させてきたので、その中で育った道場生が社会に羽ばたいていったという自負心は残るのです。稽古で汗を流した道場生は、私の迫力溢れる内容で、自分の人生を覆い尽くしたという事です。稽古することで汗を流せば、道場生が汗を流し、歓喜に溢れれば、それも受け入れられるような雰囲気でした。そのような事が稽古で毎日繰り返されたのです。だらだらとはしていなかったのです。どのような人が入門しようとも、そのような稽古をし続けたのでした。理由は、極真空手であるからという事でした。稽古を終わった時には、道場生は、やりきったという満足感で満たされた顔をしたものでした。
 ですから、極真の真似事で、感動を受ける人は誰もいません。極真の伝統に従ってこそ、新たな境地に直行できるのであって、いくら理論がどのようであれ、感動を受ける稽古はではないのです。ちょっと厳しい表現になってしまいましたが、思いのままに書き連ねました。それは、老体になった自分に言い聞かせていることなのです。今日は、新しい会場の下見をしてきました。一つは駅東であり、もう一つは富谷町でした。もちろん、極真空手であるという事を宣言しての教室使用という事なのです。もうすでに、指導者の選定も始まっています。これからが楽しみな状況になってきています。指導者が次のステップに突入という事になると思います。