2015年3月1日(八段語録2339)
フェステバル大会の意義

 フェステバル宮城県大会二日目、組手の部の大会が繰り広げられました。上級の組手は、東北で一番レベルが高い対戦に見えるのです。もちろん、東北大会、関東大会、全日本大会へ出場するための、登竜門という事になっています。真剣な内部での競い合いという事になっています。道場生は、この大会も修練の一部として捉えて、勝とうが負けようが、最後まで修練を受けるという姿勢なのです。私の仕事は、大会を通じて、道場生を本然の個性を磨かせるということにあります。それゆえに、勝ち負けよりも、しっかり空手の勉強をしているかという事を念頭に置いての大会という事になります。この大会での試みは一目瞭然、他の大会との違いが明確に現れているのです。今回東京の笹森師範も、理念通りの運営に驚いていました。
 さて、私達は、道場生に、空手の奥義を指導してきました。そして、その結実が汚されないように、神聖な道場としての人格教育に徹してきたのです。宮城県本部は、どのような人も分け隔てなく入門させます。例えこれから更生しようとする人でも歓迎するのです。それは、邪悪な精神を刈り取ってしまうほどの稽古なのです。そして刈り取った後に、もう一度神聖なる極真魂を注入していくのです。その仕事の為に、手段や道具として、極真の稽古を必要とするのです。そのような意味では、いつも稽古が役目を果たしているという事です。
苦しい厳しい稽古の中でも、神聖な人格を失うことなく、人を思いやり、自らを奉仕の中心に置くという役割を担おうとさせてきたのです。
 ところで、この大会でも見られるように、強い自分を勝ち取るという事は、力の中に技があるのです。それは、自信に満ちた自己の形成にあります。そのような意味では、一般のルールというよりは、自分を確立して、多くの人の面倒を見るような立場に立つように努力するという事です。このような生き方を真面目に考えること自体、この人間社会では、ばかげているように思うのです。それでも、稽古で汗をながし、修練を積み上げていく中で、このような生き方が一番知恵ある生き方であると悟るようになるのです。そして、強い自分が社会に役立つ唯一の道であると感じるようになるのです。
 結論として、大会が終わった時には、まさにこの根本的な姿勢を、闘った道場生に訓示をするのです。よく聞いてくれます。損得でない道場の稽古は、こうして良き人材を育んでいくという事になるのです。人は誰でも真剣に切磋琢磨をするならば、お互い報われるのであり、それによって人格的空間が広がっていくのです。その空間が大きくなればなるほど、ますます急速に、充実した人生によって満たされるようになるのです。良くされることを望まず、良くしていく為に努力する人ほど、武士道を身に着けた人材であると思うのです。よく私は話します。「人に良くしたように人生収穫するのであると」。自分を越えるために稽古があるのです。そしてその稽古の延長に繁栄が見えるのです。そのような単純な生き方が極真魂という事を肝に銘じて、この大会で培ったものを自身と周りに繁殖させましょう。