2015年2月26日(八段語録2336)
長町教室で感じたこと
長町教室で、新しい体験の子供達が見学に来ていました。十年近くも武道館で稽古をしていましたので、新しい指導員、新しい道場生と極真の伝統を継承しようとしていく姿に、眩しく輝いて見えるのです。私から指導を受けた指導員が、何人も私以上の愛情を道場生に注いでいる姿は、当時私から指導を受けていた時よりも遥かに輝いて見えるのは、代表師範冥利に尽きるという事になります。私が願おうが願うまいが、指導している姿は、私が期待せざるを得ない立場で指導している指導員であり、素晴らしい道を究めていると感じてしまうのです。もう私から何かを指導してもらおうという姿勢ではなく、積極的に極真の精神と伝えている立場になっているのです。
また、道場生同士でも、兄の立場、姉の立場で弟妹を面倒みているのです。日本がいくら広いといっても、世界が広いといっても、このような愛情の絆に満ちている、道場生の雰囲気は少ないし、私も飲み込まれてしまうのです。そこで、ずっと眺めているだけで、私が訪ねていくのに値する光景が繰り広げられているのです。この光景は、誰が宣伝しなくても、新しく体験してくれる人にとっても、そこで稽古をしたいという気持ちになるくらい心が安らぐのです。このような伝統が築かれてきたのも、原点を正すならば、大山総裁の地上最強の空手を提唱してきたからであり、その提唱を、私のレベルで完全を求めて道を究めてきた結果という事になります。
もちろん、地上最強の空手の提唱を、私の能力の範囲内で、誰からも喜ばれる最高の理想を根こそぎ築き上げるという意識であったのです。それは、言葉だけで絶対に理解されないと思い、あくまでも極真空手という武道に、具体的に反映させてこそ意義があり、価値が表現されるという気持ちが表れてきているという事です。もちろん、私の立場から、道場生を眺める観点に立つならば、修行の差は一目瞭然で、どれほどの差があるかは、道場生の締めている帯の色で判別がつくのですが、それでも、「平和をつくり出す未来の宝石」という道場生であると自負してしまうのです。それは、これから私以上の働きをするであろうという確信が生まれるのです。
これから、組織が大きくなり、門戸を開いて、多くの道場生を受け入れる時代に突入すると思うのです。そうすれば、十人の複雑な事を解決させようとすれば、十人の十字架という気持ちの負担を負うような指導者軍団が必要になるのです。どういうことかというならば、私に代わって、多くの指導者が、道場生の指導に当たるという事なのです。それも、問題を解決し和解して生まれていくようにしなければならないのです。そのように行く道でのみ、素晴らしい手塚グループが生まれるという事になるのです。ここで、私の求める指導者像は、習慣的な道を行く人ではないという事です。手塚グループの原則を提示し、そして先頭に立ち、走っていく人なのです。