2015年2月24日(八段語録2334)
人生勝負
私の場合、底辺を彷徨する如く、急降下する人生を仙台に帰ってきて味わいました。仕事に関して関西では、それなりの業績もありましたし、青春時代から実績を求めて上昇する人生を歩んできました。極真精神が息づいていたのです。もちろん、登りつめていきましたので、地位が下がるようなヘマは絶対にしないというのが信念でした。地位が下がることを恐れるというよりは、その地位に甘んじることなく実績を上げ、意欲満々という日々でした。決して地位を守ろうとして淀んで腐った水にはなっていないという姿勢でした。その立場を一切顧みないで、全て捨てて仙台に帰ってきたのです。多くの偉人は、上がったとしても、何らかの策略で下に下げられ、時を待った後に、今まで以上の高い頂に向かって、上がっていく人であったりします。そうしてこそ偉大な人物、指導者になれるのだと物語には書かれています。私の場合、策略ではなく必然的に底辺へ降りざるを得なかったのです。
というのも、長男であったこと、そして何度も両親から帰るように指示されていたこと、様々な要因で仙台に帰るようになったのですが、それはちょうど、偉人のような、何もない所に一度清算されて、始まるという事に匹敵するようでした。三十歳になる前の若い時代でしたら、このようなゼロになるような経験をしておくべきでしたが、四十歳を目前として、もうすでに私の場合、家庭を持って、三人の子供を育てなければならないという状況だったのです。矛盾するようですが、道場生には、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めます。百科事典を最初から最後まで隈なく目を通すように、世の中の全てを直接に経験しなさいと提言します。そのような経験をして、初めて拠って立つ価値観を身に着けることができるという事を説教するのです。
ところで、私の場合、もうすでに、四十歳を目前とした、家庭に責任を持つ年齢に達していたのです。そこで、私の取った行動はというならば、道場生に説教していたのとは違って社会がどのように成っているかという事を、直接体験するのではなく、知的に学問として学ぶ道を選択したのでした。学問として、学ぶことによって、世の中の全てを見回るようになり、この世の中に対して、私という人間が、得意分野で活躍できる活路を切り開こうとしたのでした。そこで、自らの明確な主体性をどのように発揮するかを研究することにしたのでした。そして、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるという気持ちで臨んだのです。そうやって、人生を切り開けば、必ずや勝利するという確信があったのです。その期間、貧乏でした。負けそうになりましたが、大学院での租税法と会計学を取得すれば、税理士という道を選択したのでした。それも結果的には放り投げてしまいました。
それは最も的確に指導してくれた教授に出会ったのです。その師は高橋志郎教授でした。指導教官として、公私とも生活までの付き合いをさせて頂いたのです。結局八年間の研究生活で、私が悟った事は、税理士で世間を渡ることはできないという結論でした。貧しい生活をしながら、私は、極真空手道の道を選択したのでした。最初から極真の指導者になれば良かったのではないかと思われるかもしれませんが、苦労して食うに食わずの悲哀を感じながら、悲痛な人生を歩んで、今の極真会館の代表師範の立場があるという事に、何か深い意味を感じざるを得ないのです。