2015年2月22日(八段語録2332)
自己管理に挑戦

 ちょっと人生をふり返ってみると、物心がついてから、つまり、意識的に考えることができるようになって、社会制度の分析ができ、知能が発達すればするほど、自己管理に対する拘束が強くなってきたように思っています。まして、壮年になってからは、若気の至りという言葉を口にするほど、慎重な行動になっているのです。極真空手のような道を求めるような作業を始めると、道義の道を開拓しようと更なる努力を重ねるようになるのです。今でも不足な自分を見出すのですから、人生、どれだけ長く生きようとも付きまとってくるような気がします。正直、良心は身体の為に生きようとするのですが、身体は言う事を聞きません。これが問題という事です。問題は誰かにあるのではなく、ましてや社会にあるのではなく、私自身にあるという事を自覚するのです。
 さて、私は今保護司をしているのですが、犯罪に陥った人のカウンセリングをするようになっています。法律に違反して、刑を受けた人と向き合っているのです。社会に復帰するために更生する努力の手助けをしているわけなのです。そこで私が話す内容が、良心を容赦なく蹂躙するようではいけないという事を話します。かえって、手荒に自分を反省すべきが今であると話すのです。要するに犯罪に至った逆の経路を進んで開拓するように話すようにしているのです。現実には、良心の声も聞こえてきますが、快楽を求める体のささやきも聞こえるのです。どちらかというならば、快楽の方を求めて、一線を越えてしまうのかもしれません。簡単な事ではないにしても、自分の本来の心を育てて肉体を管理するという事が、あらゆる人が歩んだ道であろうとも思うのです。
 ところで、恥ずかしい話ですが、極真会館の指導者と呼ばれる人でも、婦女暴行やセクハラ、暴力事件を起こしてきました。武道の道を歩んでいるにも関わらず、魔が差して、肉体の欲望のままに、最終的には犯罪に至ったケースがあるのです。それでは、理想や平和や幸福を説くことはできないのです。指導者失格という事です。それでも、回心して、指導者に留まっている指導者もいますが、刑は償っても、本人の性癖や習慣を正していくという事は、大変な事であると思うのです。性癖と同等なものが、覚せい剤による更生です。これは、夜な夜な、脳に覚えているだけに、繰り返し犯罪の誘惑に駆られていくのです。
 結論として、私達は心身を一つにしなければ駄目なのです。そこに焦点を合わせなければ、人生を全うすることができないのです。そこで、提案です。一番近い人、友人、父母とよく話をしなければならないでしょう。もちろん、道場であるならば指導者に報告すべきなのです。このような手順を踏んでいくと、結構守られるのです。このような作業をして、心から応援を受けられる道を歩むことを意識しなければならないと思うのです。心身を一致させるという事は、なかなか武道をしないと考えない事かもしれませんが、その事は、重要なファクターになるのです。一生の間、心身の闘いは続くのですが、この戦いを終わらせることはできないまでも、安住の場所は、家庭なのかもしれません。私の場合、妻に報告することによって、結構守られていることが多いのです。