2015年2月21日(八段語録2331)
我が家の姿勢

 極真会館宮城県本部の代表師範でありますが、もう五十年以上も下宿屋を営んでいます。母の時代から、そして妻の千順さんが後継者となっています。妻は、朝五時には起床して、下宿の準備を始めます。妻も二十年以上の歳月、一日も休むことなく、下宿の子供達の世話をしているのです。もちろん、食事だけではなく、母親代わりで、起こしたり、風邪を引いたといって、病院までついて行ったりするのです。下宿に入居して、四十年も越えて住んでいる人もいます。入社した時からですから、定年を迎えようとしているのです。それでも、我が下宿を出ようとしないのです。この下宿は心から安らぐという事だそうなのです。下宿代も母からの料金で、月六万円です。それも朝晩の食事付です。学生は卒業と共に下宿も出ていくのですが、ときより、昔を懐かしむように訪ねてくるのです。ありがたい事だと思うのです。
 特に、母が運営していた時は、笑いに満ちていました。下宿の人が優先されている格好ですから、父と私と兄弟は、毎日野球の巨人戦と力道山のプロレスで盛り上がるという日々でした。九時からのザガードマンの時が、家族団らんでした。それだけ母は、下宿の人に愛情を注いでいました。疲れた下宿の人を平和の安息所のように、下宿に帰ってきて、母と笑いながら食事をしている光景が今でも目に浮かぶのです。もちろん、時代が変わって、妻にバトンタッチされても、同じような雰囲気なのです。もう何百人もの家族を養ってきたことになるのです。それも、ボランティアに近い料金でのお世話でしたので、誰もが感謝していました。もうこのような家庭的な下宿は、今の時代存在しないと思うのですが、我が家では、まだ健在なのです。
 ところで、下宿を運営するという事は、親のような気持ちでなければできないのです。料金に見合っただけの事をすれば良いという事ではないのです。下宿の人には、家族よりも生活が苦しいからといって、食事を出さないという事は無かったのです。特に東日本大震災の時の食糧難の時にも、家族よりも下宿の人を優先しました。我が家の家訓というような、掲げるようなものは無いのですが、一番に家族よりも下宿の人を優先することでした。何か下宿の人が要求するものであったら、すぐさま、用足しに出かけたのです。家の事が疎かに見える時は、親父と母の喧嘩が始まるのです。そして、結果、母が勝つのです。何で他人の人を大事にしないで、私達があるのかという事を、親父に説明するのです。親父は、いつも負けていました。
 母は生命をかけて、下宿の人を養い続けました。それは、下宿人にとっても、一生思い出に残っているのであり、感謝してくれることなのです。そして、両親は、下宿の人が出ていっても、訪ねてきて何か、お願いされた時でも、嫌とは言わなかったのです。お金を無くて、その値段に見合った土地、家でなくても、購入してあげたのです。親戚にしても、お金を工面してあげるのに、二束三文の農地でも評価額の、はるかに高い金額で購入してあげたのでした。我が家の財産は、人助けの為に得た財産だけなのです。このような思考方式を持った両親でしたので、私もそのような心を育てられたのではないかと思うのです。私がこのような家庭に生まれたことに感謝するのです。他人の為に夫婦喧嘩をしてきて、他人を助けないといって、母が父に食って掛かっていました。そして、その責任を親父が背負っていたのでした。それが、私の誇りになっています。そして、極真会館宮城県本部へと受け継いでいるのです。