2015年2月16日(八段語録2325)
強靭な精神
日々肉体を鍛錬するという事は、強靭な精神力を身に着けようと努力することにつながります。若い頃の私は、「人間ではない」修行をしたものです。特に高木師範はとても好きでした。黒岳に真冬に遭難するのではないかという登山をしたり、アシリベツの滝で禊と言って、真冬に打たれたり、真冬、石狩海岸で海に入って稽古したり、終いには、流氷の上で座禅を組んだりということでした。それこそ、テレビで放映されたり、極真の写真集を作ったりという事だったように記憶をしているのです。私も若かったので、そのような事が素晴らしいように思ったものでした。その時は若く、血気盛んで競うように、馬鹿な真似を果敢にしたものです。
もちろん、世間的に見て、無価値で、どん底での体力作りという事の連続という事でした。何故だったかと振り返るのですが、精神力を身に着けるという事が願いだったようでした。私達道場生は頼もしく取り組んでいましたが、その時の高木師範は見ているだけという事でした。その時は、もうすでに修行の境地を越えているのだという事で、納得したのでしたが、あとで聞くと、本当か!と首をかしげるようでした。また、もっとも印象に残っている稽古は、二時間の間、同じくらいの体重の人を肩車しながら、腰を下ろして脚力の鍛錬をすることでした。肩車されている人が、自分の好きな歌を歌うのです。その音痴な事も手伝ってか、回りまわって、歌い続けるので、時間が長くて一生のような気がしたものでした。
それもこれも含めて、そのような修行を続けて、消化しながら今日まで来ました。結果的に、それを克服して強靭な忍耐力と精神力が身についたのではないかと思っています。一度決心したら、命を懸けて戦う姿勢は、このような人間離れしたような訓練を経て形成されたのだろうと思っているのです。私が思うに、体だけ見たら、別に大差がない同じような人間ですが、しかし、やってきた事が違いすぎます。そのためか、考え方、精神力、思想がちょっと人とは違ったようになったのかもしれません。そういう経験を重ねたことで、極真精神を汚さないような気持ちにさせられるのです。成果がどのように上がったのかは、自覚は不足していますが、今の道場生に同じことをさせたら、誰も残らないであろうという気持ちになります。
今日も、新たなる戦いという事です。どのような闘いをするかというと、昔訓練されたように、勇気を持って堂々と戦うという事です。まず、今日の自分を克服して歩むという事です。習慣的な生活をしないようにと言う事でしょうが、何事にも未練を持たずに、前進するという事です。自分の前途を台無しにしないように、石橋を渡るとう事も含めて、二月の中旬に全力疾走という事です。