2015年2月14日(八段語録2322)
たゆまぬ稽古
稽古というものは、心と体を鍛えていくものです。ただ体を鍛えるだけではないのです。自分の心と体を完全に燃焼させる時間であるという事を意識すべきです。もちろん、道場での稽古が基本ですが、一人静かな所で、自然と調和し呼吸できる生活、すなわち鍛錬を積むことが必要になるのです。それが御飯を食べるよりも、大切に思うようになると、本物です。
稽古に必要な事は、邪念で道場にくるというのではいけないという事です。あくまでの精神を浄化させてくるべきです。もちろん稽古を通じて心を浄化させていくという事もあります。何度も言うようですが、空手はあくまでも手段であって目的ではないのです。自分の道を進むうえで、はっきり分かるようになるのも極真空手の効果かもしれません。稽古と自分の進路が共鳴するようになれば本物であるという事です。
さて私はと言うならば、寝ても覚めても稽古であり、すべてが稽古の対象になっています。そのような意味では、常に反省し、決意する稽古を繰り返しているという事です。指導者に叱責されても、稽古は怠らず、嫌な気持ちになっても稽古は続くのです。そこには金銭的なものは一切入ってこないのです。稽古は、人生の補給倉庫という事になります。稽古をして蓄えていくという気持ちがなければ、流れてしまいます。私の場合、仕事をしながらでも稽古の事を考えている生活をしています。稽古するという事は限りない向上心からくるものであり、また決意を成長させるためであり、最後に感謝して終えるという事になります。それが連続的に私を刺激してくれるのです。それが私の極真空手の稽古という事になります。
勝手な事を書いていますが、すべて本音であります。少し話は変わりますが、気になることなので表現しておきます。道場の指導者にお願いしますが、報告を指導した後には絶えずしてください。道場生の思いを、建設的に師範の意図として、カウンセリングできない指導者になってはならないという事です。よく不平不満を、指導者が腹に据えて、それを同調して表現してくる指導者がいますが、まず現場で解決する能力を持って欲しいと思うのです。自分が先に入ってはいけないのです。あくまでも師範の考えを指導する事です。自分の考えが、道場を台無しにするのであり、うまくやっているという考えが道場をダメにするのです。
少し説教調になってしまいましたが、道場の目指すところは、社会に貢献できる人材育成するところです。道場の目的は、道場を大きくすることではなく、あくまでも人材を育成することなのです。道場で稽古をした人材が、社会に飛びだっていって、社会を改革し、より良い国を建設し続けることにあると思っています。そのような意味では、極真空手で育った人材が、これからの時代の開拓者になっていかなければならないという事です。道場が一つ二つ、三つと分派するようでは、どうしようもないという事です。私の道場でも、過去外れていった人がいましたが、それでは、運勢が去っていきます。最終的には道場は必要が無いと思っています。なぜならば、家庭が道場の役割を果たすからだと思っています。