2015年2月13日(八段語録2321)
回想

 1992年4月に仙台に帰ってきました。一人修行の道から、三人の子供を天から頂いて、家庭を充実させようという気持ちからでした。もう個人として、選手として、大会に出場して心身を練磨する時代は過ぎ去ったという事を悟りなさいという事だろうと思ったものでした。当時、仙台には金田道場がありましたが、すぐに移籍せずに、極真の修行者のようなものでしたから、体を鎧のように鍛えたのだから、これからは頭を鍛えなければと思ったものでした。空手バカでしたので、社会的ステータスを取得する目的で、東北学院大学に入学する道を選択したのです。四年間、経済学を学部で学びました。社会的リーダーにもならなければならないという思いもありましたので、大学院に入学する為に猛勉強したことになります。それは、俗に言うダブルマスターで科目免除という道で、そのまま実務経験二年間で税理士という道でした。
 そうしているうちに、大山総裁が1994年に他界され、極真会館も分裂分派の嵐に見舞われました。私の場合、学問に熱中していたのと、国見スイミングクラブでのバイトで忙しかったので、分裂分派の渦には巻き込まれずに、ひたすら北山支配人と学業の間を言ったり来たりという事でした。1996年2月に一番町に安斎師範が進出した仙台道場を目にしたのでした。ちょうど通学路の途上にあったので、指導員として任せてもらうようになったのでした。もちろんボランティアという事でのお手伝いという事でした。しかし、やはり「昔取った何とやら」で、血が騒ぎました。結局四年の間一千人程の道場生に空手を指導したのでした。そして、2000年12月に仙台のグランディーで全日本大会を実行委員長として執り行ったのでした。
 ここで行った事は、個人的には、自分の子供達の空手教育でした。少年部は、私の子供を中心に、近所の子供達を集めて、指導しました。そして公的には一般部として、今いる黒帯や指導員が集ってきました。仙台の繁華街の一番町の真っただ中にありましたので、多くの人が道場の門を叩いてきました。大学院まで行って税理士を目指したのですが、今まで訓練してきた事をベースにして、社会貢献をしようと思うようになっていたのでした。結局のところ、個人で修行してきた事を、仙台道場で家庭に連結したという事になるのです。個人の修行が子供達を教育することができるとは夢にも思わなかった事でした。そして、何度か足を運んでくださった手塚会長とも仙台道場で話すことができました。その話は、家族を中心とする考え方で、とても共鳴したのでした。家を捨てて、極真空手を修行したにもかかわらず、家庭を築く礎に、極真空手がなるとは夢にも思わなかった事でした。これは税理士であったらできない事ではなかったかと思えてならないのです。若い時家出をして、極真の修行をしたにもかかわらず、極真空手が、わが家庭を定着させるようになったのも皮肉なものです。
 結局、私は、極真空手という道を、理念だけでなく、私を手本として、仙台の街に定着させたことになるのです。もう道場の門を叩いた道場生は五千人を遥かに超えてしまっています。それは空手の指導者というばかりではなく、人間的側面と、生活的な面、そして行動的な側面を含めて手本としてなるように努力したことになるのです。そういう面では、道場生に、何一つ劣っていないという事を、示し続けたことになります。そのために高く胸に燃えるものを持ったという事なのです。そして、指導者はもちろんの事、道場生が代表師範は必要な人であると認めるに至っているという事です。そのために、極真空手を辞めると言っても、辞めることができないようなポジジョンまで来ているという事になっているのです。このような基盤が、自分の人生で出来るとは夢にも思わなかったことですが、現実に実現しているという事は、とても感慨深いものがあります。これでもって、天国にいる大山総裁を無視することもなく、家族も大切にできるのですから、有意義な生き方になっているのではないかと思うのです。