2015年2月8日(八段語録2315)
負けても勝つ
極端ですが、極真空手をやらなくなるという事は、人生から離れたという意識なのです。人生には、色々なことが起こります。その人生を捨てるという事を意味するのです。それほど、私は人生を大切にしているという事です。ところで、武道の精神は、心身を磨きます。しかし、今の多くの若者は、本能に支配されて、自分を磨くという事を忘れてしまっているようです。それだけに、いくら極真空手を叫ぼうが青年が修行へと足を運ばなくなっているのです。そして、多くの若者が陥っている発想は、利己主義と自己中心が、あたかも全てのようになっているのです。それだから、すべてを無視して、妻も家庭も親までも無視しようとするのです。なぜならば、もう心身の中身が腐りかけているからなのです。
さて、そうだからと言って、そのような人が正常化というならば、矛盾だらけなのです。それだからこそ、個人の葛藤はもとより家庭での闘争が日々繰り返されてきたという事です。それだからこそ、あれだけ恋愛をして恋に陥ったにもかかわらず、ちょっとしたことで分かれるような分裂と分離で人生を失っていく事が多くなっているのです。しかしながら、人は調和と融合の本来の調和の世界に帰りたいと思うのです。このように原点に返ろうとするのです。それは壮絶な戦いをしなければ、その世界にはいけないのです。激しい戦いをしなければ、得られない世界なのです。そのような意味では、極真空手が修行の一端になるのです。
ところで、このような、お互いに引っ張って綱引をしている状態の闘争に、極真空手は、勝利して明るい光を放つべく、心身の練磨をすべきであるというのは私の主張なのです。私は、若い時によく試合に出場しました。最初から、攻撃的試合運びにはなりませんでした。どちらかというならば、受けて立つと言いう姿勢がほとんどでした。そして、勝利もすれば、判定で負けるという具合でした。勝つことを意識して、闘ったことに間違いはありませんでしたが、血だらけになりながらも、前に進んでいく事を意識したものです。相手との戦いというよりは自分との戦いであったように思うのです。
結論として、自分の修行の道をより意識するために試合があったという事なのです。決して、人生をあきらめず、留まらず、前に前進する手段としての空手道という事であったのです。試合で学んだことは、どんなに困難であったとしても、生き延びていく為の闘いをし続けるという事でした。結果試合では、三分間だけでしたから、負けたとしても、人生を長く考えて、生き延びている限り、空手の修行は始まってもいないと考えるのです。そのような意味で人生を長く、刺激的に歩みたいものだと思うのです。ここの最終的に人生の公式パターンがあると思うのです。諦めなければ、人生を有意義に歩めるという事です。とにかく人生を長く伸ばして、勝つ人生を歩もうと、今日も一歩前進です。