2015年2月2日(八段語録2310)
心という貴いプレゼントと忙しい日々の生活
極真会館で今も心身を鍛えているのは、羅針盤としての心を磨こうとしているからという事です。私の場合、空手道の全国どの指導者よりも真面目に取り組もうとしています。別に比較するつもりはありませんが、人生良く生きて百年というところでしょうか。極真空手の修行を始めてから、今もなお、心をだましながら生きることはできない性格のようです。世の中には、詐欺・謀略・中傷などを繰り返して金集めに奔走する人たち大勢いますが、そのようにして集めたお金が、その人達の人生をダメにしている様子をよく聞きます。金がその人たちを打つ棍棒になるようです。ある意味で、お金ばかりに頼って生きれば、享楽に流れてしまいます。そんな生活と決別しているのが私の師範生活という事になります。それだけに、代表師範ではありますが、運営面においては、お金を動かす権限はすでに弟子に移行しています。
さて、心が一生の羅針盤であることを書きましたが、心の中で良心は仏様からの贈り物であると考えています。そして、よく人生は短いと言われますが、全くその通りという実感です。その間、良心の呵責はつきものです。もしやってはいけない事をするとしたら、心が痛みます。そのような意味では、心の中にアクセルもありブレーキもあるという事です。私の心は、一挙手一投足、一時も逃すこともなく、調整して操作してくれているのです。そして生涯教育に乗り出してくれているという事です。私の人生を指導し監視してくれているのが、まさに良心という事です。そこで、極真という所で、私の心を水晶のように清く透明にしているという事なのでしょう。垢がついて、疾病の中で機能を発揮できないようではどうしようもないので、鍛錬しているという事です。今日もトレーニングという修行から出発です。
ところで、人の一生は短いです。結婚して、子供が成長して成人になれば、すべてが決定したような気持ちです。極真空手に出会って、何十年がいつ過ぎたのか分からなくなるほどです。そうだから、人生は待ってくれません。それだから、忙しいという事です。そして、死ななければならないのです。結構苦労してきました。私のボデーもいつ故障するか分からないという所に差し掛かっています。険しい道を通れば故障してしまいます。修理できるかは不安ですが、この修理する能力を見出そうと、トレーニングという修行をしているのかもしれません。この修理能力がなくなれば、死ぬだけです。それでも、まだ人生という旅路を捨てようとしないのです。もちろん、手塚グループの副会長を辞めるつもりも毛頭ありません。それだけ貢献してきたという自負もあります。もちろん法人化の道は、これからの課題だと思います。
とにかく、人生は早いのです。物心がついて、右往左往しているいつに四十歳が過ぎ、五十、六十と過ぎてきました。こうして暮らしてみて、一生、一代は束の間という事です。振り返って、六十二年間、三分の一は寝ていました。飯を三回食べるとして三時間、風呂に入って、テレビを見て、いろいろ計算すると、自分の意志で何かをしているのは十年にも満たないという事です。そういう意味で、これから私が何かをするとしても、短すぎるという事です。それだけに、忙しく毎日を送っているというのが現実です。この文章も短い時間に書いているのです。書く暇がないのですが、忙しいのですが書いています。