2015年2月2日(八段語録2309)
現役時代をふと思いだして

 試合に出る覚悟は並々ならぬものがあったと思います。最初にウエイト制の前身であった西日本大会に出場しました。広島県代表という事で、田原敬三氏と共に参加しました。どうせ大会に参加するのだから覚悟の身でありました。結構田原敬三氏と組手の練習を二人でしていましたので、結構辛い練習をこなしていたという事になります。そこで、大山総裁の認めるような試合をしていきたいと思って参加でした。早い話が、体を鉄砲玉のように、飛び込んで試合をしたという感覚でした。結局は判定負けした。死ぬ気で臨んだ大会でしたが、真正面からぶつかりながら、息切れ状態で、延長では全く自分の組手ができなかったのでした。
 やはり、最初の全国的な試合になると、試合運びから戦略の立て方から何から何まで不十分という事でした。失望して、広島に戻ったのですが、その結果、自分の心に火が付いたという事でした。ダンベル16キロを二つ持って腕力の強化を図りました。人は敗北すると、ものすごい執念で、今度こそとなるようです。可部道場での稽古と、自主トレの毎日を過ごして、第一回のウエイト制に出場しました。今度こそという事での戦いは、二回戦負けという事でした。それでも一年間の稽古の成果はしっかり出ていました。負けた試合というより、判定という事が大きく壁として覆いかぶさってきたのです。
 それからというもの、試合付けの日々が続きました。二十八歳で黒帯を取得してからというもの、毎年ウエイト制と全日本に出っぱなしという事でした。三十四歳まで現役を続けることができました。自分を鍛えぬいて、極真ボデーを造り上げていくという事でした。全日本も三回戦までで、それ以上は勝ち抜くことができませんでした。ウエイト制でもベスト8が最高で、中堅の選手で終わってしまったという実感です。それでも、試合には48歳まで出場しました。やはり組手が好きだったのだと思います。最高の目的を強固なボデーに創造するという事になっていたのかもしれません。それゆえに、稽古は楽しかったと思いだされます。
 振り返って、やはり誰もが経験したことのないような選手時代を送ったのだと今更ながら思い出になっています。この極真空手が、自分を成長させてくれました。そして、あらゆる人との出会いで、生きる為の糧をむさぼるように習得しました。それが今、指導者となって生かされているわけです。言葉と実体と気持ちが、人生ににじみ出て来ているように関知ることができるのです。よく基本をしっかりやれば、上達するとか言いますが、修羅場をくぐってきていない奴に、何を言うのかと反論したくなります。まだまだ若いのだから修羅場を潜れという事です。ましてサポーターを着けての壮年の試合に出ても、真剣勝負の味は分からないと言いたいくらいです。私は、生死の境地から、生きた人生哲学を学びました。そして、実体を目指そうと今でもしているという事です。