2015年1月22日(八段語録2300)
極真の道を究める理由

 武士道を極めるための極真ですが、自分の欲望を思い通り主張できるところがあるとすれば、その道場生は良き状況を造っていると思えないのです。ですから、極真の道において、指導者や仲間が必要なのです。仲間がいない人は、寂しい人です。同じ極真の道を究めようとする道場生がいれば、互いに補充し、保護できるという事です。そうすることによって、環境の困難を克服できる道が生まれるのです。そうすると、自分を中心として起きる周囲の全ての要件は、何か意義付けることができるようになってくるのです。仲間ができるという事は、私を啓発させ、発展させる為の一つの教材として登場するようになるのです。そのような極真での道場の修練が必要です。
 さて、このような仲間づくりをすることによって、道場に初めて入門するような人でも、面識のある人でも、誰であっても、人に対していい加減に接することができなくなるのです。そうすることによって、人間関係において、効果的な価値を発見して喜びを感じたとするならば、その道場生は、実質的な稽古ができているという事になります。それが、極真の門を叩いた理由という事になります。
 ところで、世の中の組織は、すべて計画し、設計し、予算を組んで広げていきますが、道場での修練は目で見ることができないのです。ですから、極真の世界を追求し、それに対する目的を現実のものとして達成するのは、とても難しい課題であるのです。極真の道はなんであるかというならば、見える世界で感じる感覚よりも、見えない精神の世界を感じるようになり、その人は疲れないという事です。目的が漠然とするときは、力が出ませんが、フルコンタクトで、お互い切磋琢磨すると、新しい自己を発見するようになるのです。それが、成長につながっていることは間違いないのです。
 今日は、寒稽古ならぬ、寒い海で釣りに出かけました。メバルの釣果がありました。それ以上に、朝の四時から港に出かけ、五時過ぎには、出船して、午後一時まで、寒さに身をさらしながら、釣り糸を垂れて、自分と向き合ってきました。そのような意味では、禊になったのではないかと思うのです。そして、本当の意味での一年の出発ができたという気がします。新たな一年に向けて、最大限の能力を発揮して、全力で歩んでいける土台ができたのではないかと思うのです。こんな自分をしっかりさせるためにも極真精神が私には必要であると思うのです。