2015年1月14日(八段語録2296)
修行の生活
修行生活は、極真空手を貴く思わなければならないのは当然のことです。空手道を大切にすることが願われます。稽古しなければ安らかではないという気持ちが必要です。そうでないとすぐに体がなまります。環境に支障をきたすというのです。空手道を大切にしながら、朝に陽が昇り、昼になり、夕方になって日が沈むのは変わりのない事なのです。千年、万年変わらないのです。その軌道が狂う事になれば、すべてのものが崩れていきます。そのような意味では、自然の法則に近づきながら、自然と共に喜び、自分の修行が喜んで継続するようにしなければならないという事です。
さて、極真空手の修行は、道場と共にあるという事が第一条件ですが、個人の稽古だけの修行も必要なのです。道場で稽古をするという事は、平均的な恩恵を受けることができますが、個人が願う基準まで引きあがるかというならば、個人の恩恵を受けるには、ちょっと別の面での努力が必要になってきます。個人が恩恵を受ける稽古とは、極真精神を身に着けているという事です。深く自分を掘り下げて、自らの稽古が生活の中でどう生かされているかを、しっかり検討し認識することなのです。そうすることによって、稽古への情熱が高まるのです。それができて本物になるのです。全体だけに流されてはならないという事です。
ところで、稽古をするにしても、今年は、もう一段階、覚悟を高めなければならないという事です。自分が強くなるという事に対して、はっきりとした信念を持たなければなりません。極真空手道に対する信念を、自分の最高の理想と思うまでは、極真空手道を通じて自分が収拾できないのです。ですから、極真に対する信念を強く持つという意識は、絶対必要です。それだけに、頂点を目指そうとするならば、夜も昼も空手道を意識しなければならないのです。そして、心の世界で何千回、何万回意識して、自分にとって、正しい生き方であると感じた時、初めて、修行してきたことが、形になっていくのです。
したがって、心の底から、何千回、何万回決心してから行うようになるのです。自分から立ち上がったので、途中で様々な危機が近づいても、その危機を回避する解決策を検討し、材料を収拾するのが、日々の稽古という事になります。稽古はそういう意味でただするのでは無いのです。自分の頂上を征服するために、最高峰なら最高峰を征服するために、必要な材料を収拾するのと同じであるという事です。
最近、道場生の中には、困難が近づくとすぐにやめてしまう人も多く目立っているのですが、その峠を避けて戻るのではなく、克服して進まなければならないという事です。今ぶつかっている難しい事よりも、もっと難しい事に遭遇するようになっても、「私はそこで滅びない」という真剣な立場で、この困難を自分のものとして消化するのです。そうして初めて、主体的自我である極真魂を発見するようになるのです。