2015年1月13日(八段語録2295)
味のある人に
道場で修練すると味が出てくるのです。私は、なるべくあらゆる、活動拠点に身を置くようにしています。地域活動で実践している内容は、もうすでに二十団体に及ぶようになっています。それだけに、色々な会議に出たり、実践したりしているのです。そうすることによって、その環境の中で味わうものが多いのです。一つと同じ味は無いのです。極真空手で修行して、心身を研ぎ澄ましているだけに、味をキャッチすることができるのです。団体の中のあらゆる刺激が、細胞のように発展して、その発展の力が自分の内面において運動するようになるのです。そのように何かがあるのです。雨が降ろうと、雪が降ろうと、味わう事ができるのです。そうして味のある人に成長することができるのです。
さて、私の生きている目的は一体何であるかという事です。自分が心に決めた理想を実現するためなのです。理想を実現して何をするかという事ですが、遊びまわりたいからではないのです。確かに青春時代を生き抜いて、それなりに準備してきたのです。過去に準備したレベルがあります。また生活的な条件も築いてきているのです。それだけに遊びまわるという結論にはならないのです。そんなことをしていると途中で苦しくなってしまいます。
ところで、無条件に遊んでばかりいる人もいるようですが、それは中途挫折してしまいます。修行を続けた人が行う内容ではないのです。苦労している人でも、二種類の人に分けることができます。とにかく自分は楽に、良い暮らしをして、自分の家族が豊かになり、自分たちだけが良くなるように頑張る人たちです。それは時代が証明しています。消えてなくなってしまいます。別の種類の人達は、社会の為に自分を犠牲にしても、支えようとする人です。そのような人たちが多く生まれてこなければ、決して社会は良くならないという事です。
とにもかくにも、極真の道は生きて死の道を行くようなところがあります。極端ですが、心掛け方として考えて欲しい事は、死刑囚のような心境を持つべきかもしれません。私も宮城刑務所に何度も足を運ばせました。そして、川上先生が宮城野区の会長さんとしていらっしゃるわけですが、その方が死刑囚の最後の面談をするそうです。その人たちは、自分の刑が執行される前、どれほど深刻かという事を話してくれました。秋夕のような日になれば、その秋夕の月を、最後の月として鑑賞するのです。風が吹き、台風が吹き付けても、最後だと言いながら鑑賞するという事を話してくれました。私達は、そのような深刻な気持ちで過ごすことが必要なのかもしれません。そうすることによって、味が一層濃くにじみ出てくるのではないかと思えるのです。このように深刻な立場で命を大切に秤にかけながら、一日の生活を誓っていく人いなければ、極真を学んだ者としての発展は少ないと思います。そんな気持ちを書いてみました。