2015年1月12日(八段語録2294)
極真の修行

 極真空手は、見物するものではないのです。必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりません。道場生の皆さんは今、代表師範の私に従っていますが、私を中心として極真空手の修行をするのでは無いのです。道場生一人一人を中心として極真の修行をしていくのですから、極真の修行をするする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき極真の道があるのです。そのような極真の修行の生活は、周りの人からは学べない深い魂の世界において、一人感謝する生活、一人で満足する生活ができなければならないという事になります。
 さて、世間の環境がどのようであろうと、良かろうと悪しかろうと、極真魂を見つめながら、感謝し、満足の実感をしながら修行し続けることができる道を行かなければならないという事は、当然のことなのです。もし、そのようにできず、そのように感じる事ができないならば、極真空手をやる資格などないのです。もし、仮にそんな気持ちを抱けないとするならば、勇気を与えられるように先輩に指導を仰ぐとか、足らなさを自覚しながら、反省しながら前進するとかして、ある程度の期間を持たなければならないのは、当然の事なのです。それゆえに、極真の道は厳しいものがあるのです。
 ところで、極真の修行を実践する上で、肉体の練磨ばかりではないのです。理想をもって、その理想を実現することを信じて、必ず成し遂げるという信念がなければならないという事です。完全なプラスを理想とし、自分が完全なマイナスを創造するという事です。理想があり、自分は第二の理想であるという立場に立てば、必ず到達することができると確信するのです。私が、このようにして世界を相手に会長と共に歩んでいるという事を思うと、直接的に極真空手を消化しなければならないと思っているのです。ですから、私自身、真実であり、潔く、この極真空手を伝授され、間違いないように生きるという決意が、みなぎっているのです。
 そのような訳で、私が、この極真の修行をして、言いたいことが数多ありますが、第一に、
自分と極真空手が何たるかを、はっきりさせたのです。そして、修行をする人物が、自分自身であり、それが責任であるという事を明確にしているのです。棚から牡丹餅は無いのです。次に、例え金銭的に貧しくても、心まで貧しく生活をしてはいけないという事です。資本主義に惑わされてはならないという事は言うまでもないことです。そして、謙虚になる訓練をすることです。私も今、謙虚になる為の、闘争中です。