2015年1月9日(八段語録2291)
やるべきこと

 歳月をそのまま送らないように心がけます。すなわち、今日が戦場という意識です。青春時代、息子・娘を産み、育て、それが今日巣立とうとしています。それが子孫に誇りうることであると考えるのです。そして、その子供達が立派になっています。それが、歴史にも誇りうることです。もちろん自分の一家や町内では、それなりのグループに入っていますし、極真会館という組織も作ってきています。それだけでは、満足することはできないというのが戦場という意識です。最終的には国の伝統に残る実績を願うのです。
 さて、その業績の一端が、叙勲への道かもしれません。誰でも国に何かを残すことを願い、世界に何かを残すことを願い、天地に何かを残そうとするのです。ですから、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念を持たなければならないのです。だから人生生涯を嫌なら辞めるという考えなどできないという事になります。振り返れば、仙台に二十数年前に帰ってきて、凄まじい戦いをしたものだと思っています。やり残したことを一挙に片づけるような忙しさでした。
 ところで、去年は、県知事表彰を頂きました。今までの活動に、県からの感謝という事です。これからは、レールに乗って、国に貢献するという道を切り開くばかりという事です。このような光栄な立場に立っているのに、周りに振り回されてはならないという事なのかもしれません。環境には毒麦と麦があります。また真の羊飼いがいると同時に、門を通らずに別のところに越えていく偽りの羊飼いがいます。ですから、間違えれば、このような事を直視して見極めなければならないという事でしょう。私自身、今まで言葉を磨いてきました。私が語るメッセージで多くの青年を導こうとするのです。ですから、世間の言葉よりも優れようと努力してきました。ですから、極真会館の代表師範としての言葉は、権威をもって道場生を導くのです。またそうならなければならないと思ってきたのです。
 結論として、やるべきことは、言葉の質を高め、人格を高め、親としての愛情を広げることなのだと思っているのです。私は、人のいう事よりも、自分が学んできたことに確信を持っています。いかなる人も私を救ってくれるものではないと思っているからです。水におぼれた時、助けようと水に入っていけば、おぼれた人が必死にしがみついて道ずれにしますからです。ある意味では、同情することができない時があります。そのような意味は、極真精神に立脚した自分を信じるという立場が最も優れているという事です。そのような精神でやるべきことを実践することです。