2015年1月1日(八段語録2283)
新年

 あけましておめでとうございます。今年が、始まりました。天に召されるまでの道のりの中で、一人で行くべき運命の一日が始まったという実感です。もちろん、そんなに死が歓迎してくれているとは思わないですが、そのような気持ちで投入すべき、新年であると感じています。というのも、我が家に孫が誕生する運びとなりました。息子の聖義と茂奈との間に赤ちゃんを身ごもったという発表が大晦日の夕食にありました。今年の八月誕生という事だそうです。この世で生ききて、これほどうれしい事はないと思えるほどです。偶然に、我が家に孫が誕生するわけはないのです。準備した結果生まれてきたのです。たやすい事ではないのです。恵まれていると感じています。
 このような感動があるから、生きていることの意義があります。人生充実していると考えることができます。私の人生で、愛情が「私」の体をかすめて通りすぎた、結果であるので喜びも大きいのです。このような孫の誕生は、最高に歓迎するのです。なぜならば、死に物狂いで、途方もない人生という道を歩んできたからということです。そして、この人生に実りを得たという思いです。一つ一つ人生を歩むことがいかに大変であったかという事を考えると、特別な恩恵が、我が家にやってきたと考えてしまうのです。
 ところで、このように恵まれた一年を出発するという事ですから、私はどうしなければならないかということですが、それは、去年までの自分を一度清算してしまおうという気持ちです。つまり、今までの習慣性に凝り固まっていたものを、白紙に戻そうと思うのです。凝り固まっている自分を解凍するという事です。まず穴を掘って、永遠に埋めようと思うのです。
もし、私の中に水がいっぱいになっているとするならば、どのような水かという事です。飲み水になっているのか、泥水になっているのかです。そこに砂がたまって、石ころがいっぱいになっているようでは、もう一度かき回して、すべてを取り除く必要があります。つまり、ろ過装置を付けるという事です。水の中に汚れた砂の塊があれば、流れることもできず、そこですべて引っかかってしまいます。
 当然、今まで一生歩みながら、変わったかというならば、変わらなかった私ですから、変えるのは大変な事です。それでも、どう変えるかという事ですが、それは、春分の日の正午は影が無いのです。影が全くない自分を目指そうと思うのです。要するに影な無い生き方をするという事を心に決めての信念なのです。どのぐらい実践できるか不透明ですが、それでも新年に決意すべきことです。今年は、家族四代の始まりです。森家の益々の繁栄を願っての元日になりました。極真空手道があったからここまで来ることができたという事です。