2011年11月1日(八段語録1487)
積極的人生観(60) モスクワから成田へ
寝台列車でモスクワに着くと、ラデンスキーが出迎えてくれました。列車の旅は、人生の趣を感じさせられます。出発が在り、途中停車があり、そして静かに目的地に向かっていくのです。旅客機で旅をするならば、直ぐに到着してしまう距離も、長い時間がかかります。夜中走る寝台列車に親父の人生を引っかけている事に気が付きます。というのも、戦前、戦中、戦後と目まぐるしく移り変わる時代を生き抜いてきたのです。人生お疲れ様としか言いようがないのです。
私はというならば、人生において未だ、旅の途中なのです。やらなければならないミッションが余りにも多いのです。五十八歳を超えて、果たすべく天命を心に刻んでいる事は、間違いない事なのです。その原点になっているのが、十代の若かりし情熱をかけた事につながるのです。その為に、家を離れたのです。親父と生活することを拒絶して、全国を行脚することにしたのです。理想の何かを求めての出発でした。
それは、私の旅立ちでしたが、求道の道でもありました。理想の自分を求めることを精一杯努力したのでした。その時の戒めは、佐藤智子さんから指導してもらった内容になるのです。六カ月の期間の指導は、純粋な私の心に、自ら実践して築き上げようとする意識に他ならないのです。大げさなのかもしれないのですが、自分モデルを作っていく事を考えたのです。正しい人間としていくべき人生を実践することにしたのです。その為の空手道は絶対必要条件でした。教育者というのではなく、自分が正しい人間としてのモデルになるという事でした。その為の第一に着手したことは、強靭な肉体形成をし続けていくということだったのです。
その強靭な肉体を土台に何を考えたかというならば、どのように自分を完成させようかという理念でした。孔子、孟子の教えはもとより、あらゆる指導書を読みあさりました。自分自身をどのようにコントロールすべきかの回答を得ようと必死だったのです。読めば読むほど、理念だけではどうしようもないという事を感じたのです。実践すべきは、いかばかりかという事を考えたのでした。
そればかりでは、お寺に出家すれば済むことだと思ったので、違った社会での側面を追求したのです。そこで、心がけたのが人間関係の調和でした。多くの人を実験材料にしたことは間違いのです。この課題に挑戦することは、難問となって襲いかかりました。金子、奥城といったトップセールスマンの人間関係学から、デールカーネギーの「人を動かす」等、あらゆる書籍を読み込んだ時期でした。
しかし、本当の意味で、人を大切にする心を学んだのは、初恋の千順さんと出会ってからなのです。恋をするという事が、人を大切にすることにつながっていきました。この出会いの時は、直ぐに親父に報告をしたのです。親父はものすごく喜んでくれました。それだけでなく、千順さんの実家である広島の芸北町の田舎まで、訪ねていってくれたのです。当然男女の仲ですから、電話をしたり手紙を書いたり、出会ってから十年の歳月を過ぎて家庭を持つことになったのです。
親父は、あらゆることに先手を打ってくれるのです。付き合い始めたという話をすると千順さんの実家へ出かけるし、婚約するとダイヤモンドの指輪を用意するし、二人が合意したと聞くと、披露宴の日取りをして、親戚にお披露目を急ぐという事まで、先取りして準備をしてくれるのでした。最終的には、忙しい私達に代わって籍まで入れてくれる親ばかぶりだったのでした。親父は、いつも息子をこよなく愛し、備えれることを最大限準備してくれた大きな親父だったのです。