2011年10月29日(八段語録1484)

積極的人生観(57)
 カザン二日目

 高校に入学する頃には、我が家は収入が格段に数年前とは違う状態になっていました。親父の給料、下宿の収入、私達の新聞配達の収入、畑の耕作で、野菜などの自給自足のサイクルの確立による経費節減、お袋の時間の合間を縫ったバイト等、豊かな近代的な生活ができる環境になっていました。親父が親戚の中でも、群を抜いて成功を勝ち取っているように思えたのです。
しかし、両親の取った生活基準は、質素倹約でした。収入の全てを貯蓄に回して、将来に備えたのです。親父に必要な経費は、一日二箱の「しんせい」というタバコであり、好んで二級酒の日本酒を飲んでいただけでした。楽しそうに、下宿の掃除をしたり、周りのゴミ拾いをしたり、休みの日には畑に出かけて耕作にいくという地味な生き方なのです。親父の表情には、誇りと威厳が漂っていました。太平住宅の仕事に関しても、他の同僚が集金係で、使い込みをして、会社を解雇されたりしているのを聞いたりしていたのですが、親父の場合、会社からの信頼も絶大なものでした。
ある時、上司に当たる人が、我が家を訪れてきました。下宿人を置いて、運営している親父を羨ましそうに話してくれたことを思い出します。おそらく、上司であっても、収入の面では、数倍も違う状態になっていたのでしょう。親父に対して一目置くような態度になっていました。太平住宅で、上下関係はありましたが、成功者として認められていたように思うのです。
さらに、数年前からは、親父の父「金上竹寿」も我が家に訪れるようになっていました。最初に訪れてきたときに、私も出会ったのです。孫にあたるものですから、親しげに接してくれました。自転車を押してくる姿が今でも懐かしく思い出されます。親父からするならば、妻子を見捨ててしまったような立場に見えたかもしれないのです。それでも暖かく迎え入れていました。その時から、他に三人の弟がいるという事を知ったのでした。親父の成功もあって、金上家でも長男として認めるようになっていました。それどころか、金上家の誇りのように思われたのでした。
また、親父の母親の新たなる嫁ぎ先である伊藤家での妹の薫さんの存在も知るようになりました。親父が森家のお婆ちゃんの養子になったことで、伊藤家に嫁いだのです。そこで、女の子を生んで、直ぐに病気で亡くなってしまったのです。その妹との付き合いも始まりました。親父が成功することで、森家、金上家のお世話役のようになってきたのです。母もしっかり受け止めて親戚付き合いをしておりました。
私はというならば、高校に入学するようになって、環境もすべて整ってきたこともあって、高い理想を抱くようになりました。旺文社の大学受験講座を毎月一年生から購読するようになっていました。しっかり勉強をするのです。目標を早稲田大学においたのでした。新聞配達はするものの、何不自由しない環境の中で、人生について考え出した時期もこの
頃なのです。
 一端に恋心を幼馴染の寺本さんに抱いたのです。小学校、中学校と頭もよく、生徒会でも活躍していました。決して美人ではなかったのでしたが、好感の持てた女性でした。友達として、会話はしましたが、デートをするわけでもなく、ただ通学の時に挨拶する程度でした。この時期に重なったのでしょう。愛と性という事を考え始めたのでした。ヘルマンヘッセの「車輪の下」を読み、「カフカ」に傾倒し、マルクスの資本論をかじったり、生徒会で制服の自由化を掲げて学生運動をしたり、考えさせられることが多かった時期でした。この時期の親父は、前にも述べたように威厳があり怖くもありました。私の「青春の門」という事であって、親父に相談するという事には決してなかったのでした。恋に関しても理由はなんであったか分からないのですが、一度だけ、私の勉強部屋を訪ねてくれた寺本さんの思い出が微かに残っているのです。両親はできれば、寺本さんが嫁さんに来てくれればいいような会話をしていました。それでも、恋以上に、理想とする目標が大きかったのも事実なのです。
 この時期も親父は威厳がありました。何度も書くのですが、自信にも満ちていました。そんな私に転機をもたらせたことがあったのです。佐藤智子さんとの出会いでした。八歳も年齢が違っていましたし異性という感性はありませんでした。個人の在り方について学びました。よく青葉城へ登ったりして、いろいろな人生の相談をしたのです。そしていつの間にか、私の人生の師になったのです。裁判所の近くの片平町に良く出かけました。夜中まで話したのです。その時に考えたことは、自己完成せずに男女間の内容に踏み入るべきではないという気持ちになったのです。それ以来、寺本さんとの交流は全くなくなってしまいました。
 親父の堅実な生き方とは別に、高い理想を抱いて、世界には羽ばたきたいという気持ちになっていたのです。東京の繁栄を見に、何度か上京もしたのです。親父は威厳のあるままでしたが、息子の行動に対して、容認する態度でした。あれほど、望んでいた大学も、自分の理想を求めて、断念して向かっていきました。自己管理に関しては、極真空手を選択していました。理由は、柔道は、相手がいなければ練習できない事と、畳がなければならないからです。そして人生を底辺から求めようとしたのでした。何故ならば、苦労は若いうちに買いなさいという教えが染みついていたのでした。自分は何ができるのかを、社会の底辺に立って上を見上げようとしたのでした。
 そうする色々な社会の姿が見えてきました。漁師に出会い、木こりに出会い、街の人、村の人、南は沖縄から北は北海道まで、寝袋一つで歩き回りました。最初に勉強をするのではなく、社会の中で生活するという事を選択したのです。そうしている内に、経済問題を考えるようになりました。どこかに勤めるというのではなく、自分でお金を儲けるような作業をしたのでした。その次に、多くの人との関わりを持つように努力しました。そこで人間関係学の神髄を学ぼうとしたのです。さらに、どのように生きて社会貢献すべきかと言う事を個人から世界に至るまでの理念を自分なりに構築しようとしたのでした。