2011年10月27日(八段語録1482)

積極的人生観(55)
 モスクワ到着からカザンへ

 10時間十分の時間を経て、モスクワに到着しました。モスクワの責任者がわざわざ出迎えてくれていました。食事を共にして、親交を深めました。モスクワに着くと、空港は近代的な環境になっていたのです。今回で三回目のモスクワ訪問ですが、空港が見違えって近代化され、そこで働く職員の教育もサービス精神が徹底されていました。共産圏の面影はまるっきり感じることはできないのです。かつての空港は、入国審査のゲートが少なく、働く職員も、高圧的でサービス精神など、カケラもないほどの不親切さでした。この時は時間が来ると、シャッターが下りて入国審査を待つ人など構っていられないという程の態度なのです。何時間も待たされて、やっと通過したことが昨日のようです。
 国内線に乗り換えて、飛行機を待つ時間親父の事を考えているのです。私も人の父親になって過ごしてきましたが、あっという間に時間が経ったのだという実感です。息子・娘が二十二歳を先頭に連ねた年齢になっているのです。親父もそうだと思うのですが、高度成長の真っただ中、所得倍増の波に乗って、親父の給料も良くなっていきました。しかし、母は、高くなる給料に浮かれていないのです。固定給を貯蓄し、歩合給だけを生活に回す生活なのです。世間並みにテレビも入りました。車も原付自転車からバイクになっていました。私が小学校五年生になると、家計を支えるために新聞の夕刊の配達をするようになりました。この時の小学校の担任の先生が安部先生でした。私に対して、自主性という用語を下さりました。積極的に何事も参加しなさいという事でした。クラスでの発言も多くなり、勉強の楽しみも理解することができるようになりました。親父も、私が勉強するので、頼もしく思ってくれ始めていました。このころから、親父の古川出張も始まるのです。朝五時には、東北本線の東仙台駅に到着して、古川営業所へ行くのです。夜は十時過ぎに帰ってくる日々が続きました。親父の後姿を鏡として、勉強しなければと思うようになってきたのです。
ところで母は、安定した生活の中でも、生活を切り詰めるのです。親父は母親がマルハ大洋にアルバイトをするようになると、それを「善」とはせずに、親父の場合、家で働く環境を作ろうとしていました。母と共に居たいという発想の中から、生まれてきたのが下宿屋さんでした。夕方から朝の新聞配達に切り替えてからも、自主性という意識は強く働いたのです。何事にも挑戦しようとする精神は、この時に養われたようです。挑戦しようとする心が磨かれました。一人で自転車を走らせ、四十キロ地点まで冒険するのです。松島海岸はもとより、野蒜方面まで出かけるようになっていました。
 私が中学に入学する頃は、自転車通学でした。そこで親父は、2万6千円の高価な自転車を買ってくれたのです。これも驚くべきことでした。中学一年が終わろうとする頃に、下宿棟を東側に立てるのです。親父は、会社を早退するかのように、下宿棟の大工さんが作った所を何度も見回るのです。母は、大工さんに朝の10時ごろ、お昼、三時ごろと、お茶菓子を出して、心情交流をしているのです。そして、二ケ月もしないうちに、台所、トイレが共同の、九部屋の家が立派に完成したのでした。私の部屋も二階の水道が付いた洗面所に作ってくれたのです。勉強部屋が出来上がりました。環境が整うと、勉強もするようになるようです。親父からナショナルのキロクターという名前のテープレコーダを買ってもらいました。高価な買い物を肩にかけて差し出された時には、天にも昇る気持ちでした。
 不思議に私の友達も、勉強を中心にする人達へ移行していくのです。高橋淳一、四宮晴彦、両友達との絆が深くなっていきました。親父の苦労を意識することなく、別の友達との関係が築き上げられたのもこの頃でした。この友達と、サイクリングに良く出かけました。さらに、勉強もするのです。三人全員理想は高くなっていました。私が、子供会の関係で東警察署から表彰されるという栄誉なことが起きました。全校生徒の前で披露されたのでした。物凄い自信になりました。勉強も急速にはかどりました。結果私は仙台高校に入学し、四宮晴彦は仙台工業に、高橋淳一は仙台三高に入学するのです。それ以降拍車をかけるように、東北大学や早稲田大学を目指すような勢いになるのです。現実に実現したのが高橋淳一で早稲田の商学部に入学を果たしたのでした。四宮晴彦は、東北学院大学に入学なのです。私はというならば、大いなる大志ゆえに、ここから親父に迷惑をかける人生の出発をするのです。
 この頃の親父は、母が下宿屋の台所に立って、下宿人の世話をするのを横目で見ながら、テレビの野球観戦をするのが日課でした。もちろんプロレスも大好きなのです。タバコを吸い、酒を少々飲みながら、母の台所での働きを大切そうに見守りながら、充実した生活を送ったのでした。また、近くを梅田川が流れているのですが、親父は、河川敷を立派な畑に変えていました。下宿が始まっていたので、畑で自給自足の生活を楽しんでいたのでした。
下宿をして生活が安定していく中で、親父の取った行動は、親戚を助けるとうことなのです。二束三文の農地で、しかも農家でもないので親父に購入する権利のない畑を三百万で購入したのです。それは、庄司家が何としても家を建てたいという願いから、それに答える形でした。当時の三百万円は、相当な金額だったのです。その土地での畑作業がつい最近まで続けてきたのです。
さらに、下宿の人の中で、愛子の向田に百二十坪の土地を購入していたのですが、千葉の実家に引っ越してしまうので、土地を購入して欲しいという事で、それも高めで購入したのです。二つの物件購入は、人助けという事なのでした。親父の心は、人助けという事に懸けたお金の使い方をするのです。そのような意味では、誰からも恨まれない、堅実な生き方をしたという事なのです。
ところで、モスクワからカザンに行くのに、ここの空港で六時間待ったのです。その待ち時間も、親父の事を考えていました。そして、十一時十五分には、カザンへと飛行機は飛び立ちました。カザンでは、ボリス師範を初め、顔なじみの指導者達が迎えてくれたのです。ホテルへ直行すると、すぐさま床に就いてしまいました。