2011年10月26日(八段語録1481)

積極的人生観(54)
 ロシアへ

 朝起きてみると、八時近くになっていました。確か五時近くに、博先生から携帯に電話が入ってきたのを覚えているのです。通常の朝修行の連絡です。博先生も東京主張なので、お互い確認という意味での電話でした。朝食取りながら三人で会話をしていました。一人でいると、親父との世界に入りがちなのですが、ちょっと現世に引き戻された気持ちになります。九時過ぎには、ホテルのバスに乗って空港へ向かいました。
 人ごみの中では、何も考えることができないのです。流されながら出国審査を受けて旅客機に乗り込みました。エコノミー席の一番前列の壁を前に座りました。普通の席より広いのです。さらに通路側をお願いしていたので、ゆっくり親父と会話ができそうなのです。最初に食事を頂いたので、疲れが眠りへと誘ってくれました。
その後、思い出が断片的に浮かび上がってきます。生まれた時は、中原住宅の伊藤家宅のアパートでした。一緒に勝君と遊んだ思い出が浮かびます。大家さんの息子なのですが、どちらかというといじめていたように思い起こします。それを、母が謝っていたそうです。親父は太平住宅へ通う傍ら、母は洋裁の内職をしていたのです。母は夜遅く帰ってくる親父を、風呂の順番を最後にしてもらい、風呂釜を薪で温めながら、炭火を貰って親父を温めたそうです。母は買い物かごを底上げして、いかにも買い入れたように見栄を張って、魚屋では魚の切れ端の荒を安く購入し、八百屋では、残って安く売っている野菜を買って、親父と私に食べさせたのでした。その頃の親父の給料は微々たるものであったようです。
ようやく貯めた当時の一万円と母の実家から援助してもらった五万円で今の苦竹の住まいの土地を購入し、材料は母の実家から材木を切りだして、母の実家の大工さんが格安で家を建ててくれたのでした。裸一貫で一軒家を建てたのですから、親父の自慢そうな顔が浮かび上がります。今は苦竹には無く、青葉区の愛子方面の向田団地に立て直して今も残っているのです。この家は、当時進駐軍が苦竹駐屯地に駐在していましたので、六畳二つを米国人に貸していました。八ミリカメラで私の幼いころの映像を取ってもらったそうです。そして、四畳半と三畳、風呂とトイレという狭い場所を最大活用して生活したのでした。
 親父は、この頃から、几帳面さと真面目な性格を買われて、集金係を仰せつかったのです。当時は、振り込みではなかったし、注文住宅でしたので、毎月集金という事だったのです。営業から集金係に抜擢されて収入も安定したとの事でした。宮城県一帯を回るので、原付自転車に乗っておりました。よく松島観光に連れていかれました。遊覧船にも始めて乗せて貰ったのです。
親父はタバコ二箱と二級酒を呑むのが楽しみでした。子供ながら、近くの鈴木酒屋さんに二級酒を買いに行くのです。タバコは、表通りの根本タバコ屋さんなのです。このころ、二男の明弘も生まれました。利府のお婆さんも来てくれるようになりました。案内のかつみ叔母さんのところに良く連れていかれました。親父は行くと、話をしながらお酒を浴びるくらい飲むのです。と言っても酒は弱いので、すぐに寝てしまいます。母に起こされて家路に着くというのがいつものパターンです。
森の実家の利府町にも出かけました。菅谷という所で、バスで行って停留所からかなり、山道を歩くのです。そこに菅谷不動尊と道安寺があって、昔の農家があるのです。ここが親父の本家という事になります。一応なのです。というのも、父の母が金上にお嫁に行ったのですが、金上竹寿さんの甲斐性が悪いという事で、森のお婆ちゃんが連れ戻してしまったのです。そして森のお婆さんの養子に父はなったのでした。母のしずえさんは、伊藤家にお嫁に再び嫁いだそうです。それでも農家商いをしながら、親父になにかしら買ってくれたそうです。その後若くして亡くなって、親父が引き取ってお墓を建てたのです。
この利府の森家へ私達家族は良く行って、とても歓迎されていました。しかし、ある時酒の勢いで森家の叔父さんが、養子縁組をした親父と一方的に喧嘩になったのです。遺産相続の事もあったのでしょう。いつも遊びに行った利府の実家へは、それ以来いかなくなってしまったのでした。関係改善を持つようになったのは、叔父さんが癌で亡くなってからでした。
この利府の実家は、親父が牛一頭預けられて世話をして、子供時代過ごしたところなのです。お婆ちゃんの養子に入ったのでしたが、周りは叔母さんだらけだったのでした。肩身の狭い思いをしながら過ごしたことは想像がつくのです。尋常小学校、高等科、青年学校と過ごしたのでした。
私の幼年時代は、このような事もあって、金森の母の実家に預けられることが多くなりました。金森には、喜代江さん、英子さんという母の従之叔父さんの娘がいましたので、春、夏、冬の休みのときは、毎回長い間泊まりに行ったのでした。それも休み中なのです。我が家としては、貯蓄をしていく上で、預かってもらった方が助かったのです。
 この時期は、母の兄弟の子供達が集まってきました。一番上は、秋夫さんで、当時金森は田圃を開墾していたので、ブルドーザーが入っていました。ブルに乗せられながら、子供達総出て遊んだ記憶があるのです。田植え、稲刈りというと、昔小作であった近所の人達が来て、毎日夕食は宴会でした。宴会の残り物が私達の大切な食糧でした。それでも足りなくて、餡子餅をたくさん作ってもらっていました。親父もよく迎えに来て、従之叔父さんと盛通さんと言われながら、酒を飲んでいましたが、弱いのでよく寝ていました。この頃はバイクを運転するようになっていました。バイクの後ろにすがるようにして、金森から帰ってきたことを思い浮かべます。バイクの後ろはかなり怖かったように覚えています。いつも乗せられるバイクの後ろは、怖かったという思い出ばかりでした。それでも親父の温もりを背中から伝わってきたのでした。