2011年10月23日(八段語録1478)
積極的人生観(51) 通夜
親父の人生は、戦前、戦中、戦後の目まぐるしい時代を一生懸命走り去ったという印象なのです。結果において、裸一貫からそれなりに財を築いた人なのです。それだけに、周りから、不幸になることを祈られた時もあったのでした。その人たちは、団結し力を得て、親父が丹精込めて作ってきた畑を、河川敷という事で取り上げてしまいました。毎年見事な農作物を作っていた妬みからも生じていました。また、市道からはみ出しているという口実で、はみ出した部分を壊すように圧力をかけられたりしました。さらには、農家から農地を購入したのですが、価格が二倍に、そして三倍として支払い、挙句の果てには、仮登記しかできなかったのです。本登記まで有に三十年の歳月を掛ける羽目に陥ったのです。親父の姿勢は、黙って、自分のやるべきことを、誠実に実行しているだけでした。
親父の精神態度は非常に大切な事であると私は思うのです。人から恨みを買うという事ではないにしろ、人間、どこで他人から悪く思われているかもしれないという事を、何度も息子として肌で感じました。親父は、下宿棟を建てたり、アパートを建てたり、黙々と歩んできたのです。親父のような寡黙な着実な性格の人でも、人間という欲望の強い存在がひしめいている社会では誰からも悪く思われないという訳にはいかないのです。そのような意味では、親父のような生き方で、気にすることなく、やるべきことを黙々と歩むだけという姿勢が良いのかもしれないのです。努めて気にせずいたようでした。
さて、今日は通夜の日です。別荘に棺に納められている親父と、母と私が横たわっていました。深夜まで母と父との思い出の語らいをしていたのです。お袋が心配であるからという事で、金森本家のけさい叔母さんと、かつ子叔母さんが、母の話し相手に来てくださいました。気持ちの沈みがちな母親の相手をしてくれたのです。私は、何かしら、花の手配とか、会食のお膳の手配など事務処理と確認に時間を取られているのです。自分の事も忘れているので、いざ通夜の時間が迫るころには、礼服がないとか、様々支障をきたしていました。妻も忙しそうなので、要求することはできないのです。自分で自己完結的に動くしかないのです。ともかく格安の紳士服を「洋服のAOKI」で手に入れて、会場に向けて二時半には出発したのでした。
そうしているうちに、八善堂葬祭会館に到着すると、三十三本の花が飾られていました。そのように配置するのかという事での仕事が始まりました。そして受付、誘導、和尚との打ち合わせ、司会との打ち合わせ、様々なことが振りかかってきました。当然親戚の方々との挨拶を初め、一瞬たりとも自分の時間を持てないのです。それでも礼服に着替え、通夜の準備です。日曜日という事もあって、見る見るうちに会場は一杯になり、二階のスクリーン席にまで弔問客が押し寄せてくれました。手塚会長、杉原師範も駆けつけてくれました。感謝でしかありませんでした。通夜が始まり、和尚の「お経」が流れ、焼香の時間が過ぎ、喪主の挨拶をする時間になりました。包み隠さず、親父の全てを話そうと原稿に目を向けながらスピーチし始めたのです。涙を堪えながら途中で、話の間が途絶えてしまうほど、心に打つべきものを感じての時間でした。
「通夜振る舞い」の後は、会館に一人親父と一緒でした。私の子供のころからの思い出が時空を超えて脳裏に映るのです。会館の周りを何度も徘徊しながら、走馬灯のように思い出される数々の記録を大切に心にしまっているのです。いつの間にか明け方が近くなっていたのでした。