2011年10月21日(八段語録1476)

積極的人生観(49)
 父親について

母と二人で病院に向かう途中、医師の船田先生から電話が携帯に直接入ってきました。一度心臓が止まりかけたという報告です。その後3分後に病院に到着したのでしたが、かすかな息しかなく、最後の別れを母と私にしたのでした。
●時は、2011年10月21日 午前10時10分
●場所は、長命ヶ丘針生船田クリニックで、生涯を閉じました。
●入院生活は、54日目でした。
病院では、母のよし子に看取られながら、最後を迎えたことになりました。秋晴れの天候が父を守り続けていたようでした。病院では、肺炎を起こしたようで高熱で息遣いが荒かったのです。それでも、最後まで生涯を全うする歩みをされたのでした。
 さて、親父の生涯を掻い摘んで書いてみました。昭和2年5月3日、利府町の菅谷に誕生しました。父金上○○、母静江の長男として出生しました。母静江はもとより、祖母からも愛情を注がれて育ったのでした。小学校に入るや否や、牛一頭の世話をするほど、しっかりと家事の手伝いをしたのでした。夜は遅くまでワラを編んで、居眠りをしつつ草履や縄を作っていました。そのような農家での手伝いをしながら、尋常小学校6年を通い、知的能力が高いという村の評判で、その後高等科2年、それ以降青年学校に3年通うのでした。
 また青年時代は、父方の勝代おばさんに身を寄せて進駐軍の仕事をしていたのでした。その後独立して衣料品店を営むようになっていた時に、母よし子と見合いをしたのでした。母も姑がいない父を好ましく思い結婚まで僅かな期間でゴールインしたのです。父母は裸一貫での人生を出発させていましたので、最初の苦労は大きいものでした。衣料品店から母の提案で当時一流会社の太平住宅に入社することができ三〇余年もの間、勤め上げたのでした。
 ところで、父は、結婚してすぐに次の年の9月26日には、長男義道を誕生させ、三年後には二男の明弘10月14日に、9年後三男の茂雄を10月18日に誕生させたのでした。当時、日の出の勢いの太平住宅に努める傍ら、三人の子供達を大学まで卒業させるために、三十年もの間下宿業を営みつつ、農家をして自給自足のサイクル型の生活に取り組んだのでした。親父の性格は、例え収入が増えようとも、将来に備えて貯蓄し家族に愛情を注ぎ続けた人生でした。一例を挙げるならば、古川出張の時、会社で準備したアパートには寝泊りすることなく、必ず夜遅くとも仙台の家まで帰ってきて、朝早くから出社するのでした。出世コースとは程遠い会社勤務でしたが、家族に愛情を注ぎ続けた人生という事になるのです。
●性格はまじめで、仕事を最後まで貫く人
●家族思いで、出世よりも家族の下に帰ることを願った人
●農作業を通じて自然を大切にした人なのです。