2011年10月20日(八段語録1475)

積極的人生観(48)
 父への思い

 親父の入院生活も50日を過ぎようとしています。今回の入院は長期に渡っているのです。熱が40度の高温が続いています。酸素マスクをして、荒い呼吸をしているのです。親父の回復を待つばかりです。医師の船田先生との面談をさせてもらったとき、血液に細菌があれば肺血腫の疑いがあるという事した。この場合には、急に死に至るという事もあるという事です。しかし、希望的な観測も聞かせてもらいました。というのも、親父が、元気すぎてベッドから降りてしまう様子だったのです。医師が詳しく調べてみたら、点滴を打っていたところを、触って何度も外していたので、膿んで細菌が入って、それで熱が出ているという事でした。その事が原因ならば、熱が下がって平常に戻るという診断でした。
それにしても、心配なので、弟二人に電話して、もしもの時には、覚悟しなければならないと話しておきました。
 病院のそばのファミレスで飲み物を注文しながら、親父への思いに耽っていました。青年時代に私は若さに任せて、自己中心の歩みをしたのです。親父には迷惑をかけたばかりでなく、例え大義とはいえ、大切に育てられその期待に応えるどころか、裏切ってしまったのです。親父の心に傷をつけたことを深く心痛めるのです。それでも、親父は何も言わず、太平住宅という会社で黙々と仕事をしながら、故郷から息子の事を心配しながら過ごしていたのでした。痛いほど、子供を持つ身としては切ないのです。再び故郷に帰った時も、黙って何でも受け入れてくれるのです。昔、家を飛び出したことにも触れることなく、全てを叶えようとしてくれるのです。孫と嫁も気に入ってくれて可愛がってくれたのです。
帰郷してこの二十年、親父からこれと言って否定されたことがないのです。何でも好きなように振る舞えることが出来たのです。大学へ行く事も、空手道場を開くことも、家を新築することも、受け入れてくれた親父に、何を言って良いやらと、ベッドで高熱を出している親父に、済まない思いが飛び交っているのです。それにしても、また元気で生きて欲しいと願うばかりでした。
親父は、私に対して、信頼を寄せてくれる人でした。全力を挙げて、寡黙にも示してくれたのです。私は、故郷に帰ってきての生き方は、それに答えることだけだったように思うのです。この期間、私は親父に信頼され、非常な喜びを感じ続けてきたのでした。それは、親父から、放蕩息子でありながらも、長男として評価してくれていたのです。二十代から私は事業をしていましたので、一定の期日まで多額のお金を必要としていた時がありました。そして、借り入れをし、返済が難しくなっていた時に、快く資金を準備してくれたのも親父でした。そして、返済が難しくとも何ともない表情で、その後何とも言ってくれなかったのです。それで、ひとまず期日に返済しなければならないことを忘れてしまう事も出来たし、心理的にとても助かった思いがあるのです。
 金銭面でピンチの時に心理的に安定させてくれ、不安と緊張から解きほぐしてくれたのも父親でした。若い時に、人生で最も難しいことはお金にまつわることであるという事を経験した私は、お金は借りない方がいいとうという結論を持ったのでしたが、親父からは借りたことになります。私の潜在意識の中に親父に救われたという気持ちがあるのです。こんなに大事な父親なので、できるだけ長生きして欲しいという気持ちなのです。