2011年10月12日(八段語録1467)
積極的人生観(40) 戒めの言葉
自分から発する言葉は、人を生かしもするし、もしかして死にも追いやるかもしれないのです。というのも、悪口をいわれると、私を悩ませ、平静な心でいることができないのです。私が思うのですから、私から語られる言葉で、いろいろな感情を湧き上がらせているのであろうと思うのです。そのような事柄からして、互いに発する言葉が重要であると思うのです。この歳になると、吐く言葉で人を傷つけたくないと思うし、聞くこと関しては、たとえどのような内容であっても、自分のためになるのだと信念を持つのです。この発想は、修練を積んだ立場ならば、できるのかもしれないのです。
今日の仕事は、午前中から午後にかけては、下宿の風呂掃除です。カビキュラーを所狭しと、まき散らして、汚れの一斉除去なのです。外側ばかりではなく、ボイラーの中までですから、結構手間がかかってしまいました。道具の調達でD2に出かけることから始まると、終わったのが四時過ぎになりました。黙々と掃除をするのです。ただ黙ってのという事なので、黙示の業のようになりました。それにしても風呂場から眺める天候は秋晴れで、清々しいのです。時折私の四畳半の書斎から眺める梅田川には、二羽の白鳥が降り立っていて、優雅に羽を休めているのです。心和むひと時から、空手の稽古に向かうのです。青少年の教育に重点を置いている道場だけに、精神的な主柱としての指導をしなければと、心に決めての出発です。
さて、今重要視する言葉はなんであるかというならば、この教育ラインを守り抜くための言葉であると考えています。現場の指導員を守り、道場生を守っていく為の表現になります。結論を言う前に、事例研究という事で事実を書いてしまうのです。
一つの例は、大阪の選手上がりの指導者がおりました。指導にも定評があり、信頼もされていたのです。その指導者が逮捕されたのです。婦女暴行と窃盗でした。車を使って通りがかりの女性を乱暴して、金品を奪うという犯罪を重ねていたのです。この団体ではこの指導者を除名して事実を葬り去ろうとするだけだったのです。
二つ目の例は、東京で起きた事件でした。何人かの道場生が、車に積んである保冷庫に鍵をかけて、凍死させたのです。その道場生は、殺人の罪で服役したのでした。殺人犯でありながら、平気で空手の指導者にしている輩もいるのです。その指導者に将来を担う青年たちを任せることが出来るかは、良識の判断に任せる以外にないのです。常識の範囲では、県の責任者になるべきではないというのが私の見解なのです。
この二つの例が出現しない前に、大山総裁の指導はどうであったのかというならば、池袋の本部道場では、道場生同士の恋愛は絶対に認められなかったのです。もし総裁の耳にでも入るならば、二人とも破門という事だったのです。更に、路上での喧嘩は絶対に行ってはならない事として指導を受けていました。当然破門なのです。私たちは、総裁から空手道を追求する求道者としての最低限度の姿勢を示されていたわけなのです。
結論として、このグループが青少年の教育を守っていく上で、大切にしなければならない言葉は二つあると思うのです。一つは、不適切な男女関係を持ってはいけないという言葉であり、二つ目は、暴力を振るって相手を傷つけてはいけないという言葉なのです。当たり前のような言葉なのです。しかし、この二つさえ守って青少年教育を行うとするならば、大きな間違いを起こさなくなると確信しているのです。
社会を取り巻くあらゆる過ちの大本は、この二つに尽きるように思うのです。不適切な男女の関係と暴力が諸悪の根源であるのです。ある団体でも、自分の秘書のように扱っていた女性に乱暴しようとした指導者があったのです。断固として戒めるべきことだと思うのです。灯台下暗しとも言います。身近な人から注意を促しましょう。この件に抵触した場合は、包み隠さず公言し、村八分にすべきことであり、決して公認すべきことではないのです。何故ならば、組織と家庭を破壊する行為そのものだからなのです。いい加減にはしないのです。