2011年10月5日(八段語録1460)

積極的人生観(33)
 指導者について

 この組織の方針だけを伝えて、現場に指示だけを出す責任者はいらないのです。お前は何をして来たのかという事を問われるだけなのです。本当の意味での道場生との会話をしていないし、具体的に一緒に汗を流せない指導者が多いのです。地位だけからの「錦の御旗をかざした」方法を取る人間が余りにも多すぎるのです。指導者は底辺に立つことが願われます。現場の指導者と一緒に積み上げていくべきものです。そこで初めて、信頼され指導者として立つことが出来るのです。グループの責任者は、あえて言うならば、組織の上に立つというより、一人ひとりを大切にする空手道を究めさせようとする伝道者なのです。道場生の一人ひとりが、心の通う指導者を目指すべきなのです。
 それから、道場生と道場生の父母に関心の持たない指導者もいらないのです。父母の言いなりになるような指導者がいるとするならばとんでもない事です。指導者は、自らを鍛えて、地上最強を目指すべきです。力がないとするならば、私のように努力を重ねるべきです。このグループが良くも悪くもなるのも指導者次第なのです。偽善な指導者には嫌気がさします。「あなたはどのような修練を積んでいるのですか」と問われたら、空手道を追求するものとして自信を持った回答をすべきです。もちろん技術的な事だけは、人はついてくる訳はないのです。あくまでも絶対的に信頼できる関係が生まれて初めて委ねることが出来るのです。
 ところで、何故このような事を表現するのかというと、行政を司る公務員とも言うべき人間に出会ったのです。話を聞けば聞くほど、一方通行の事をいつまでたっても捲し立てて言い続けているのです。こちらとしては、話は分かったので、お互い信頼関係を築くためにも、対話をしましょうと言い出したいのです。そのような願いを聞き入れる訳でもなく、何がこの人の誇りなのかと思わざるを得ませんでした。こんな人間に公務員は任せることはできないと思いましたし、吐き気がしました。年齢と社会的地位の高い割には、学習能力に欠けているようです。
 このような事を書くと、人の事を棚に上げて自分は何様のつもりなのだというお叱りを受けそうです。その公務員に感じたことは、自分が思うのですから、自分にも在るという事なのだと思うのです。意外と謙虚になるのですが、私がこのような内容に当てはまらないように出発すべきであると肝に銘じています。今日はこのような消極的な事を書くことを主眼点においたわけではないのです。ちょっと疲れているようです。それでも毎日、明日目覚めた時に、私は偉大な力によって導かれているという決意をしたいのです。そうでなければ、大願成就などできるはずはないのです。