2011年9月26日(八段語録1451)

積極的人生観(24)
 一割献納

 今日は、五八歳の誕生日なのです。いつも正しい歩みであったかというならば、クエスチョンがついてしまいます。失敗と間違いの中で成長してきたというのが真実なのです。それでも、猿とは違うので反省もします。その中で感じることは、自分が正しい時には、正しい相手に巡り合うものです。その事実を噛みしめる誕生日になっているのです。つまり、相対レベルの原則が相手に引き合わせてくれるのです。
それから、自分の信念として、収入の一割以上は、手塚グループの為に何らかの形で捧げているのです。少ない給与でも、そのような実践をし続けてきました。当然規約として、審査会の納入、空手着代、会員証代、それだけでなく、経費も自分で工面しながら捧げ続けてきたのです。もらう立場の中心者はどうなのかは私にとって何の意味も持たないのです。そのような事は私にとって関係のないことなのです。手塚グループの為に捧げてきた金銭を、私の信念、確信、自信として植えつけたのです。その事が、私の生活の豊かさと満足をもたらす源泉になったのでした。
このような考えがなければ、献身的な行動もありません。すべての行動の前に、このような考えが先行したわけなのです。もちろん、現場のスタッフが増えてきました。このような行動の吟味をしていくことも必要になってきています。この吟味を中心とした行動は、良い方向に向かっていると思うのです。もちろん、現実の運営があります。それをしっかり握って番頭役に徹してくれる師範も存在するので保つことが出来るという事なのです。
私のこのような行動は、理性の領域ではないのです。もう既に誰も受け入れかねるような行動として映るのです。行動よりもすでに、このような考えがあるのです。この思考は正しいと自分に言い聞かせているのです。実際このような行動をして、何か不幸なことが起きた事実はないのです。もちろん、捧げようとする行動は目先には、何事も起こらないのですが、行動のない所に幸福はあり得ないと思っているのです。私の活動、この活動のみが、グループの発展を決定すると確信もするのです。
今日は、誕生日という事で、早く家に帰ろうと思っています。誰も祝ってもらおうが貰うまいが、それ以上に五八年間、地上に過ごせたことに対して感謝の念が湧くのです。利他主義は私の原点なのです。一人の政治家に対して、現実に支えてくれるメンバーに対して、何もしていないという事をつぶやく事も耳にするのです。親に成りきれない人に対する不満なわけです。我が身を振り返って、広い心、高い理想をもう一度考えていこうと思うのです。不平不満は、私一任という事で収まりました。それでも、身近な人に対する配慮がなければ、未来はないと感じるひと時を持ちました。