2011年9月22日(八段語録1447)

積極的人生観(20)
 台風が過ぎて

 白浜空港から羽田空港へ小さな旅客機で出発です。台風が過ぎた後ですので天気は回復してきているのですが、風は少し強く吹いているようです。旅館を出ると、白浜の浜辺が波にさらされています。砂浜が持って行かれそうです。実際どこからか砂を運んで維持しているようです。ところで、和歌山を訪れたのは、もう二十年前のことになります。一年間、紀国という会社を経営していました。紀州の梅等、自然食品を手掛けていました。会社は、橋本さんに任せていましたので、よく加太の港に鯛を釣りに出かけたものです。
 また、串本にブリやカンパチなどの大物釣りに出かけたものです。一番釣れた時の思い出が印象に残ります。入れ食い状態で三十匹のブリを上げてしまいました。それ以来、何匹かという数しか釣れないのですが、それでも海に出かけては、自然を満喫していたのです。釣り以外では、健康管理の為にスポーツジムに通っていました。汗を流し、自然に親しんだという、思い出が残っています。ここ和歌山は、次女の文誉が生まれたところです。更に、親からすれば、放蕩息子としての最後の任地という事にもなるのです。
 私も四十歳にもなっていましたので、両親も我慢の限界で、早く仙台に帰ってくるようにと再三にわたる催促でした。この時、母親は魚の骨を喉に詰まらせて、手術を受けるために入院していたのです。私も観念して実家を継ぐという事を自分に言い聞かせた時だったのでした。そのような思い出が去来します。
羽田空港への飛行機からは、富士山を見ようとお袋は窓から顔を覗かしています。お袋は、十代後半に京都へ洋裁を習いに来たそうです。四か月の間、姉の家で間借りして習っていたのでしたが、京都は肌に合わないという事で、仙台に帰ってきたそうです。その時の帰りの富士山が、いつまでも見ることが出来て思い出の中に残っていたそうなのです。その富士山を空から見ようとしているのでした。
 今回の旅で、お袋の若かりし日の思い出をたくさん聞くことが出来ました。お袋の父親が京都の警察官をしていたこと、剣道六段の腕前であったこと、お袋も京都の町を隈なく歩いていたこと、様々でした。今回の四泊五日の旅は、親子の絆をさらに深めるための神様からのご褒美であったと感謝させていただいたのでした。
 東京でお袋は仙台に新幹線で向かいました。私は広島へ向かったのです。東京駅で駅員に仙台で降りるお袋のお世話をお願いしました。私は、合宿を行う宮城師範のところなのです。盤石な基盤を築くための第一歩という事なのです。教育は地味ですが、愛情を持って投入したことが、素晴らしい人材を生み出します。その人材が未来の極真会館を背負ったり、地域社会に貢献したりするのです。
 何のために極真会館があるのかというならば、捨て石になって優秀な人材を世間に送るためなのです。それ以外に考えることはできないのです。絶えず未来に向けての発信という事になります。それだからと言って、未来ばかりを見つめているわけではないのです。現実の今というこの時の積み重ねという事を忘れてはならないと、心に留めております。もう既に、自信を持って前進する心構えが出来ているのです。しっかりとした舵取りをするのです。一歩間違ってしまったら取り返しがつきません。完全な公的な団体として、公私ともども見本となる歩みをすべきであると考えさせられているのです。