2011年8月30日(八段語録1424)

私と全国組織(94)
保護観察所で社明の反省会

 午後一時半から、保護観察所で社会を明るくする運動の、今年度の反省会を持つことになりました。仙台市の各区の報告がありました。当宮城野区から、私が代表で報告することになりました。報告の順番は、中ごろでしたが、気が付いたことは、仙台市内の中でも大震災の影響に関しては温度差があるという事なのです。別段なんら大震災の影響を受けることもなかった地区もありました。私の地域宮城野区では、生死に関わる内容、全財産を失う内容、戦火における避難民のように、体育館を避難所として寝泊りにせざるを得ない住民の生き様がある地域との格差があるのです。
 それでも、原町地区としては、この大震災にめげずに、私達社明のメンバーが学校との連帯を図った講演会や気合を入れるべく空手道の錬成会の話をさせていただきました。大震災の生々しい話から、行事に至るまでの話までしましたので、反省会は神妙になったのです。観察所の所長も心痛めてくださって、全国紙に載せるので写真を持ってきてくださいという、お願いもされたのです。
 そのような話をさせていただいた後に、突如襲ってきたものがありました。震災後蒲生海岸に出かけた時の事なのです。この時は、消防団のボランティアの最中でした。海岸から見渡す内陸の様子は、津波に襲われて瓦礫の跡が散乱し、死体も傷ついて放置されていたのです。その海岸線に立って、この地域に多くの人が住んでいたであろうに、大津波という大震災に出会って、人生を終結せざるを得なかった霊魂に対して、だた、鎮魂の思いにしかならなかったのです。
 その鎮魂の思いとは、何故そのような大津波に巻き込まれてしまったのかという無念さでした。もしあの時間に大津波が押し寄せていなければ、今までと同じように生活をしていたはずであり、一生を無事に長寿として全うしたのに相違ないのです。人間において一番大切なものは、何と言っても生命なのです。それがなければ、愛も生まれて来るはずもないのです。その生命が幸福とか、その他の要素をもたらせてくれるのです。生きていればこそ、森羅万象の中心として、本当の生き様が出来たであろうにという事なのです。
 会議が終わり観察所を後にして、親父を迎えに行こうとしたのでした。ところが、親父に黄疸が現れて長命ヶ岡クリニックに入院するというのです。八四歳でもあり、肉体は弱っているので素早く、入院の手続きを取って、治療に専念という事になりました。医者が話すには、黄疸がどのような経路で出ているのかを調べるという事でした。また、心を痛めることが続くのです。私の心にあるのは、親父を思う親孝行の気持ちなのです。育てられた愛情に裏付けられて持っている気持ちなのです。親父に育てられた最高のパワーなのです。病院で入院する親父を思うと最高度に心が痛むのです。親父が入院したという事をニュースのように感じることはできないのです。