2014年12月17日(八段語録2270)
人生の結実

 人とは、生きて見て、善悪葛藤体というべき存在のようなきがします。この葛藤は一生続くのであるという事がはっきり見えてきているというのが実感です。一生、善人としての道を行くという事は、本当に難しいことです。どのような運命になるかは、自己との戦いの結果になるのでしょう。一生希望が持てる人生とは、あくまでも善人としての生き様であることに相違ない事は誰にでも分かることです。私の保護司としての十五年間の地位の確立を得たのは、善人だからという事ではなく、私の人生行路が善に傾き、善の過程で、善の結実をなしようにして実を結ぶことと思ってはいるのです。

 そのために何を日夜しているのかというならば、言葉の探求です。理想の言葉、夢の言葉、愛の言葉、その言葉を探して、その言葉を実践するという事なのです。そのような言葉を実践するためにも、善人としての立場が保護司という、国に公認された地位という事になります。私としては、この地位を上手に活用しているという事になるのです。保護司が何になるのかと問われるかもしれませんが、自分の善なる地位を求めていこうとする手段という事になります。そうすることによって、どんなに間違い、どんなに誤ったとしても、悪に走らない布石をしているという事です。

 ところで、奇しくも、東北学院大学がキリスト教の精神をベースにしているので、聖書66巻完読したのです。二年間に及んで、聖書の勉強をせざるを得ませんでした。そして、キリストが何のために苦労して、何を正したのかという事も学びました。結局人生に生かせた部分は、良き家庭を築き上げるという事でした。聖書のエキスを得て、枝を貰って、その枝に接木したような気分にもなったきがしました。私は、キリスト教学という学問を学びましたが、教室で教えられるものが、説明でしかなかったようでした。結局、沃土や温かいねぐらのようなところでは、何も聖書から学ぶものが無かったように思うのです。砂利の多い土地のようなところで、世間の荒波にもまれながら、身に着けてきたというのが人生だったように思うのです。

 そして、今のこの時を迎えているという事です。人生結実しているかというならば、まだまだ中途半端であることに相違ないのです。だから今、言えることは、人生未完成であるという事で、目的に向かって、どのように進めていくかという事を、しっかり熟慮して、一歩一歩着実に日々を重ねていきたいと思うのです。まだまだ、生きてやり遂げてきたという証明書が欲しいという気持ちでもあります。宮城県知事の感謝状まで来ました。後は、法務大臣賞であり、最後は叙勲に至れれば、人生の生きた証明にはなるのかと、頭をめぐらしています。日本人ですから、そのような発想もするのです。