2014年12月8日(八段語録2259)
理想は実体に

 私の生活が理想でありたいと心掛けることは必要であると思うのです。この肉体を磨いているのは、クゥオリティの高い生活を送りたいという事からです。病気をしていては、生活自体どうすることもできないという事です。今日まで健康に過ごさせていただきました。病気でもしたら、当然、その質は落ちるのです。土曜日に松島のカキ小屋に行って、食べ放題でしたので、たらふく食べてしまいました。今日になっても、お腹の調子が悪いのです。ちなみに、昨日はトレーニングも休んでしまいました。ちょっと気を取り直して、今日から気合を入れて取り組もうと思うのでした。

 さて、私の理想的生活とは、当たり前に家庭があって、父母がいて、夫婦が仲良く、子供に恵まれて、兄弟姉妹が仲良しという事です。そうあることによって、和合と統一は自動的にやってきます。そのベースの上に、愛情に包まれ、共に健康で、血筋が続いて、理想の目的をもって歩むことが可能になることなのです。最低限、私の家庭が一緒に生活できて、暮らせるという事が理想なのです。何ともない平凡な事を言うと思うかもしれませんが、その平凡な生活の為に準備し、困難を乗り越えようとしているのです。それが、主人としての役割であると考えているのです。

 ところで、子供がいくら優秀で、いくら立派な知識人でいるとしても、あまりそれを重要視しないのが私の観点です。それよりも、生活していくうえで、直観の世界で、すべてを凌駕していくならば、その知識よりも立派という事です。つまり、直観ですから、しいて言うならば、心の光を通じて見るので、そこに関連している世界は、自動的に理解できるという能力を持って欲しいと思っているのです。私の家庭を見ると、一人の人間のような組織であろうと思うのです。私が走ればみんなが走り、私が笑えばみんなも笑うような関係性があればよいという事を思っているのです。

 私があの世に行くという事になる時期が来ると思うのですが、その理想は、家族として仲良く暮らすという事ですから、あの世でも、親父や親せきに囲まれて、愛情の雰囲気に守られながら生きるという事を前提にしているのです。私と家族、親せきも含めて、一人の人格体としての愛情組織であれば幸せであろうと想像するのです。このようなオーソドックスな発想をするのは、極真を極めたところからも来るのです。道を究めるとそのような事になったという事です。