2014年12月3日(八段語録2254)
人の体

 私は、不思議にも親に似ているようです。そして、人生の生き方を見ても、似ていると言われます。特に肉体は、両親ではなく、母方の祖父に似ているという親戚も多いのです。再び、祖父が生まれ変わったように言われます。そのような事を考えると、生まれ変わりとも思いがちですが、個性は違いますから、遺伝的なものだけでしょう。さて、この肉体は、いずれは消え失せてしまうのですから、肉体を脱ぐという事になります。脱ぐという概念は、魂は生き続けていくという事を前提にしているわけです。そのような意味では、肉体を持って、制限された愛情から無制限の圏内に突入していくという気持ちがあるからです。第二の出生の瞬間でありたいと思うのは私ばかりでしょうか。そのような概念を抱くことによって、死の恐怖から逃れようとしているのかもしれません。

 それにしても、私には生きる目的があります。もちろん、人それぞれ、生きる目的が違います。生きる目的が違っても、生き方は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして生きるという事なのです。何のためかと問うならば、人生をエンジョイするためであるという事です。私のエンジョイの仕方は、結構、生命を差し出すような戦い方をしてきたように思うのです。まさに、全日本の試合の舞台がそうでありました。負けて死ぬことはできないという信念のもと、必死に最高の勝利を目指したものです。天上天下、一つの勝利を目指したものです。死ぬにも、方法があり、位置があります。最高の位置で死ななければならないという気持ちで試合に臨んだ青春時代が思いだされます。

 ところで、私が人生を歩んできた瞬間・瞬間を見ると、悔いのない生き方をしてきたのではないかと思うのです。希望を抱いて暮らしてきたという事です。人が悲しむような峠を、結構楽しんで生きてきたのだと思うのです。例え、いかなる境地の中でも、生死にかかわる場面があったとしても、恨んで口惜しく思う人にならず、喜んで自らの死の価値を誇ることのできる人物にならなければならないと思うのです。そのような立場で人生を歩もうとするならば、人や時代は答えてくれる筈だという思いがあるのです。

 結論として、この体がある限り、一生懸命人生をエンジョイしたいと思うし、あの世に行ったならば、この宇宙よりも、もっと大きな世界で、活躍したいと思うのは、私の妄想でしょうか。そうだとしても、形容することができない膨大な、未知の世界であることは間違いないのです。そのような意味では、肉体を脱ぐことを苦痛と思わずに、その時まで、死力を尽くして、生き続けようと思うのです。