2014年12月2日(八段語録2253)
人生は何を求めるのか

 人は生まれて死ぬようになっています。死んでどこへ行くのだろうかと、よく考えたものです。煙となって消えてしまうように無くなってしまうのではないようです。それにしても、未知の世界であることは間違いのないことです。その未知の世界の根本を掘り返してみようとするのですが、私には、簡単に思えるのです。生活の原則、理想的な根源に立ち帰って生きている人だけが、往生していけるようなところであると思えてきているのです。とにかく、私が自覚しようがしまいが、あるところに向かいることは確かです。私が動いている時も進んでいるし、休んでいる時も進んでいるのです。

 さて、その進んでいく先は、私自身が運勢に捕らわれようが、引っ張られようが、否定できないところに行くのです。あらゆる問題を解決しても、いずれ私は、逝くべき運命に置かれているのです。私が人生を全うしたのちに死ぬ日、この体は、火葬場で焼かれてしまうのです。この体が埋められるその日は、心も、命も、理念も、あるいは願いまでも共に火葬してしまうのでしょうか。この問題に対して、その内容と解決点をはっきりした目的観を立てておかない人は、不幸な人にならざるを得ないのです。

 ところで、私はと言うならば、人間は魂を持つ存在で、その生命は永遠であると思っているのです。私の場合、空手道という道を、必死に探求し、決死の修行をし、多くの人が嫌だという道も希望をもって抱いて行ったので、普通の人が感じられないものを感じ、普通の人が分からない価値を知ったのです。ですから、極真の道を踏み越えていく事ができたのです。魂が現実世界でぶつかる、逆境と困難と悲惨な道も、もっと強くならなければならないと心に決めて、苦境の時も後悔する歩みをしたくないと思い、悲惨と困難にして逆境も乗り越えていこうとする気持ちが大きかったのです。

 結論として、壮大な事を言うつもりもないのです。ただ、私の生活に奉仕と犠牲の原則を貫いた、当たり前の普通の生活ができたならば、それが最高であると思えるのです。何も犠牲と奉仕が最高に素晴らしいかというならば、一般的な法度を適用するだけなのです。そこに合格できるようにするために、人を愛するという試験場があり、訓練所があるという事です。私が生きているときは、このような体験と、このような気持ちで、人生に合格できるように歩みたいものであると思うのです。