2014年12月1日(八段語録2252)
新しい出発

 普通の人は、死ねばすべてなくなると思っているのです。私もそう考えていた時もありました。それでは、空しいという思いで、勝手に理論づけをしています。死後の世界は必ずあるという事を思っているのです。当然なくても、あると思うのです。人生は、死んでも続くという発想なのです。当然、この世で生きることはできないので、あの世に行くという事は、それなりに準備しなければならないという事です。私が理想としていることは、あの世では、愛情で呼吸しているという気持ちなのです。この世で愛情を中心として生きてこそ、あの世でも呼吸できるという発想です。

 たとえ、そうでなくても、そのように思うのは楽しいことです。死んでからは、愛のような空気が漂う世界であると考えるのがいいのではないかと思うのです。新しい出発の門出が死という事なら、納得がいくことです。ちょっと寂しいのですが、永遠に生きることはできないという事も事実です。当然、生命と死について考えることが、結構暇ですからあるのです。死と生とどちらが強いかという事を考えるのですが、現実的には死ぬことが、インパクトがあるような気がします。

ところで、私は全日本の大会に出場し続けたのです。どちらかと言えば、空手道に励んできて、死ぬような立場で、死ぬことを嫌がっていたら、決して試合には勝てないのです。死ぬ気で戦ってこそ、復活して相手に勝つことができるのです。そのような経験をたくさんしてきました。今私が、何を築こうとして人生を歩んでいるかというならば、いろいろありますが、理想的な愛情を家族と極真会館と地域社会に供給しようとしているのです。ですから、家族に関しては、円満であらなければならないような愛情を限りなく自家発電しているという事です。このような歩みを止めようとはしないのです。日々の生活は、もちろん経済的な側面がありますが、それ以上に愛情を、存在しているという事だけで、供給しようとするのです。それには、たゆまぬ努力が私には願われます。自分との対話はもとより、空手道を通じた修練の限りを尽くすのです。

 結局、私は、愛の種製造所であり、その愛の種を蒔いて、家族に実らせるという作業をするわけです。確かに肉体的には、生殖器で、精子が製造され、妻との関係として、ことあるごとに排出されます。もう子供は産むことは無いのは承知ですが、愛の形は、夫婦関係ということです。それを煩わしくは思わないし、至誠の喜びと思うのです。それは、夫婦の営みという事以上に、日々私自身が、愛情を製造して家庭に注ぎ込む努力が願われていると思うし、それが、愛情として、輝くように反映されていると思うのです。