2014年12月1日(八段語録2251)
終わりからの出発

 人が死ぬのは、制限された時間と空間から解放されようとするからだと発想するのは得策です。無限に自由になろうとすれば、制限された肉体はいらないという事になります。ですから、魂の世界が自由な世界であろうという事になります。ですから、いずれ来るで、あろう死ぬことは、無限な自由と愛の所有を決定する幸福の門を開くときと設定した方がよさそうです。それでも、死の恐怖はぬぐえないのですが、もうすでに、還暦を越えているわけですから仕方がありません。そういう意味では、這って歩き回る生活から、ひらひらと飛び回って暮らすことのできる魂の世界に移ると思えば、気が楽です。

 そのような意味では、全宇宙を自分のステージにして、愛情あふれる感動で楽しめる旅行者の資格を持ち、そのような世界に入門するために、魂の世界に向かっていくのであり、空手道でしっかり、鍛錬するという事になるのです。ですから、新しく生まれる瞬間を死と定義した方が自分の人生にとって得策であるという事は間違いないことです。まあ、いつかは肉体を脱いでいくわけですから、そんなに空手道で修練しなくても良いのではないかと思いたがるのですが、この肉体を鍛えるのは、心身を統一するためであり、いずれあの世に行く魂を磨くためであると思っているのです。それだから、これからもなお、修練は続くのです。

 ところで、私は、母から生まれた時の事をよく聞かされます。嵐の夜、電気も消えて、凄まじい天候のもと、朝の四時四十分に生まれたそうです。自我が芽生えない時、母親の腹中で胎教を正しく受けたので、健康で元気な赤ちゃんとして生まれたというのです。ですから、心掛けなければならない事は、私は、善の自我を育て、良き人生を、親を見本として生きなければならないという事を意識しなければ、腹中で育てた母の恩に報いることはできないという事です。

 結論として、死は第二の出生として受け止めて、更なる前進を決意すべきであるというのです。今まで生活して、親から生まれたわけで、親と共に生きながら、親から学んで、今まで生きてきたと同じように、新しく魂として生まれ変わり、愛の魂を完成した人格体として、生きようとするのです。有形なる世界から、無形なる魂の世界へ移動、または突破するのが、肉体の死であると考えれば、これほどおめでたい事はないのです。それにしても、悲しむのは、まだやり残したことが多すぎるからという事に他ならないと思っているのです。このような人生観は、都合の良い考えかもしれませんが、今生きていく私にとっては、最大の理念という事になります。