2014年12月1日(八段語録2250)
死とは

 還暦を越えて、準備しなければならないのが、肉体を脱ぐという事です。つまり、死という事です。それは、自分は歓迎しているのだろうかという事ですが、まだまだこの地上でやらなければならないことが、あると思っているので、歓迎する境地には立っていないというのが本音です。もちろん、何のために死ぬかという事は、考えなければならないことですが、あくまでも、映画の一シーンではないのですが、愛の為に死ぬという事が一番麗しいように思うのです。ですから、肉身を脱ぐという事は、無限の愛の活動に出発するという事にならないと、納得がいかないという事になるのです。

 さて、病気にかかって死にそうになれば、こん睡状態になります。死んだのか死んでないのか分かりません。よく話を聞くのですが、その時に、そこから自分が行って暮らす場所の全てのものを見るようになるそうです。自分が行って暮らす場所にいる同志たちが来て、自分を歓迎してくれ、また、果てしなく広がる豪華絢爛な所を見て、私はいかなければならないと思って、行く人と、まだやり残したことが多いという事で、戻って来て生きる人がいるという事です。当然、お迎えに乗ってしまう人は死ぬという事でしょうし、生きたという人は、残った人という事だそうです。

 ところで、このような話を聞くにつけ、この世で良いことを実践し続けることが大切であり重要な事であると思うのです。私の人生も少しずつ良い事に向かって、一次、二次、三次の門を通過するようにして、愛情を勝ち取っていければいいと思っているのです。しいて言えば、第一次は、自分自身を完成させることであり、第二次は、家庭を大切にし続けることであり、第三は、自然を大切にすることであるという事を思っているのです。そして、あの世に行って刈り取られるという事にするのです。そう考えると、死は落胆したり、気落ちしたりすることではないのです。落ちるのではなく、跳躍するようになります。つまり、高められていくのです。このように自然の循環の法度になっているのではないかと思うのと、必ず、そのように訪れるであろうと確信をしているのです。あくまでも、推測ではなく、確信しているのが昨今の私という事です。もっと良い世界に移住すると考えているのが、私という事です。

 今日は、関西空港に滞在しています。昨日、福岡での全日本大会が成功裏に終了することができました。手塚会長も川崎師範も喜んでいました。仙台から参加した伊藤今日香も六年女子で優勝を果たしていました。何か思い出として、清々しく感じるのです。これも人生の一ページに記憶して、あの世に持っていきたいものであると思っているのです。