2014年11月25日(八段語録2244)
還暦を越えて
六十年という歳月を生きてきて、思い出に残っていることは、マイホームで愛情に包まれて過ごした日々という事です。空気以上に愛情を感じ、呼吸してきたという事です。親からの愛情は、限りなく広く、深いものがありました。とても幸福感に包まれたものです。親から、限りなく愛情を注がれ続けてきた人生であると今更ながら実感するのです。親からの愛情の空気を供給され続けてきたという事です。その時は、理解できない事でも、今となっては、はっきり深い愛情であったと思えるのです。
さて、私は、森家に赤ん坊として生まれ、全盛期を過ごしてきました。老化の一途をたどっていますが、赤ん坊に帰っていくような気がします。徐々に肉体の切れがなくなってきますし、勢いが衰えてくるのです。そして今後はどうなるのだろうかと考えます。多くの人が辿ったような道ですが、私は、現実はどうあれ、この地上から振り払われて、次の次元の愛情の溢れる世界に連結されるように思っているのです。まさに、赤ん坊がへその緒から切り離されて、肺で空気を吸って呼吸するように、魂でもって、愛情の空気を吸えるような呼吸器官に繋がれるのでは無いかと思っているのです。親の愛情、兄弟の愛情、夫婦の愛情を土台として、大宇宙の本体と和合した愛情の世界に入っていくのではないかと、想像力を持って、発想を高めていくのです。
ところで、あの世は、愛の空気でいっぱいに満ちていると、勝手に思っています。根拠は、スエーデンボルグの本を読んだときに、あの世の実情をリアルに描いていました。環境は同じでも、ふくよかな人と貧相な人がいたという事です。例えですが、あの世では、2mの箸があるようで、一つの場所は、食事をするときに、その箸で食べるのですが、箸が長くて、食べられず、失点罵倒を繰り返し、見苦しくしている場面を繰り返しているのであり、もう一つの場所は、同じ箸が2mでも、互いに分け合って食べているので、箸が長いほど、多くの人に分け与えられるという内容の本でした。
そのような、あの世の実相を書かれている内容を見ると、私にとって、今この世で愛情の息ができる呼吸器官を準備しなければならないのかと勝手に思っているのです。実際はどうあれ、今の世界を愛情に溢れた雰囲気にしたいというのが、私の考えになっているのです。
愛の息の穴で呼吸できたならば、どんなに幸福感を得られるでしょうか、あの世に行って、愛情を吸収できる耳と目と鼻、そして五官が準備されていれば、死の峠を越える時に、それが開かれると思って生きるのが健全であろうと思うのです。無限のあの世で必要なのは敏感な感性であると思うのです。死に直面しても良い、危ない年代だから考える発想という事になります。