2014年11月24日(八段語録2243)
人生の道

 私は、母のお腹の中の十月十日は記憶にないのです。そして、肉身を持って還暦を迎えたのですが、この肉体が無くなれば、人生終わるかどうかは、私には分からないのです。霊魂の時代が数千年、万年、永遠に生きると言われてもピンときません。私の顔を見れば、目、鼻、口の三つのパーツがあります。これは何を意味するかは分かりませんが、口は、物をよく食べます。鼻は臭いを嗅ぎますから、目は、何かを見ています。そのような事を考えるのです。このことに何か深い意味があるのかどうかは分かりませんが、運勢判断やそのほかの占いで、このパーツは、その人の人生にとって意味があるというのです。
 さて、話は戻りますが、母のお腹の用水の中は、赤ん坊にとって自由天地でしょう。母のお腹の中でいつも背中を曲げていなければならないし、勝手に足蹴りもできず、鼻も目もみな塞がっているのですが、胎児には自由な所なのです。赤ん坊には必要な全てのものを供給するパイプがそこについていて、へそだけで生きていかなければなりませんが、そのような事が赤ん坊には自由なのです。決して腹中で、魚を食べ牛肉を食べ餅も食べるぞとは思っていないのです。それにもかかわらず、十月十日をして、破水して外に出て出産になるのです。
それは、無事に生まれるという事なのです。
 ところで、もしものことですが、私が還暦まで生きてきて、さらに肉体が滅ぶまで生きたとして、これが、胎内にいた時と同じように、空気中の中を動き回って、暮らすのと同じであるとしたならば、面白いと思うのです。死は、第三の人生に向かって出生するという事に出もなれば、その死ぬ瞬間が大切なのでしょう。そのような事を結論として、考えるのは、武士道を求めるもとしては、不謹慎な事なのかもしれません。
 でも、年寄ながら、希望を持つ昆虫に、トンボがいます。初めは幼虫になって水中を泳ぎまわるのですが、地上に上がってきて、一時は這い回ります。その次に、バタバタと飛び回り、地上では食べようと思わなかった虫を取って食べます。結局空を自分の舞台にして飛び回るのです。昆虫は、このような三段階の生涯を送るのが多いのです。トンボは、結局、水の中で生き、陸地で生き、空中でいきるのですが、人間はどうなっているのかと、ふと思うのです。年を取ることは、現実逃避がはなはだしいと思われても仕方がありません。それでも、どのように生涯がなっているのか考えるのです。