2014年11月22日(八段語録2241)
精神的な健康をどう維持するか

 海の魚を見ると、一番端、一番浅い所には小さな魚がいます。だんだん深い所に入れば、次第に大きな魚になっていきます。小さな魚は、もう少し大きな魚に食べられ、さらに、その魚はもっと大きな魚に食べられるのです。どんな魚でも、この原則から離れることは無いのです。たとえクジラやマグロでも、子どもだとしても全く同じなのです。どんな魚でも食べられてしまう過程を通過しなければ、生き残ることができないのです。ですから、例え、クジラの子供だかと言って、この原則は変わらないのです。最初から大きく生まれて、小さな魚を食べるようにはなっていないのです。あくまでも、原則が同じで公平になっているのが海の世界なのです。
 さて、私は船釣りが好きなのですが、釣竿から糸を垂らして座っている時の退屈さは、到底言葉に出てきません。船の上ですから、散歩もできず、狭苦しい所で動かなければならないし、やめて、レストランに行くこともできないのです。ましてや映画や、友達のところへも行けないという事です。ましてや、集中していなければならないので、音楽も聞けないのです。ですから、海を見つめながら、海や空や自分と対話するのです。何故、私が釣りに出かけるかというならば、自分を覚醒させることができるからなのです。
 ところで、私は釣りに行くときは、どこに行くにしても、多くの事を考えるようになっているのです。長い間釣りをした人は、釣竿を十回垂らせば十回考え、百回垂らせば、百回考えるようになるものです。そのようになると、考えることにおいて、先駆者になる可能性を秘めているのです。釣りは、そのような意味では、精神的な事を大事にするようになるという事です。そして、精神の健康のためにも良いのです。座って釣りをするときは、自分の一生を回想し、本当にたくさんの事を考えるのです。自分の過去を分析し、未来の生活の設計を検討します。私にとって、重要な時間となるのです。
 結果、海に行くと、威厳を与えられ、自分自身を静かに顧みることができるのです。ですから、私にとって、釣りは、道徳的にも、精神的にも豊かになります。ある意味で、不合理な自分の除去に努めますから、代表師範として責任を持っている立場でも、紳士的に物事に対処できるようになるのです。このことで、すべての人と調和できる、訓練道場になっているのです。そのような事を思っていますから、釣りは私にとって趣味ではなく、精神を健康にするための修練所になっているのです。