2014年11月16日(八段語録2236)
水に似た趣味生活
六十歳を超えたのですから、もう現役というよりは、後輩を指導するような立場で、なおかつ、生活はというならば、趣味を中心に生きなければならないと思えるこの頃です。何事も、喜びを感じて、生活しなければならないというのが最近の心境です。誰かに「やりなさい。」と言われて仕事をするような年齢にはなっていないのです。趣味ですと、せずにはおれないという心境になるのです。そのような事で何事にも挑戦することが、これからの生き方になるのでしょう。そのような生き方は、たとえ眠らなかったとしても、金銭面が問題ということでもなく、環境がどうのこうのという事ではなくなっているのです。
ですから、何か趣味を持つという事が、自分に与えられた課題という事になるのです。もう金銭を目的にして活動する時代ではなくなっています。もう仕事場へ行って、何時から何時まで働くという事には、興味がなくなっているのです。ストレスをためて、趣味というものがなければ、面白くもなんともないのです。いわゆる、道具になろうとする気持ちが無くなっているのです。自分という意識は、機械の動作のように生きているという事にはならないのです。ですから、還暦を越えて、考えることは、今後は趣味をどのように開拓していくべきかという事を考えるのです。
ところで、何を持って生きるかという事を考えるのですが、水は、いくら汚れていたとしても、集まれば、必ず水平を保つようになっているのです。私もいくら、出来が悪くても、水が水平になるように、人間として当たりまえの生き方をすべきであると思うのです。この当たり前な考え方が、私は水平になる水と一緒であると思っているのです。それは、調和した社会という事でしょう。このような社会では、生活水準が同等でなければならないと思っているのです。このような共同繁栄は、共同責任の土台の上で、自発的に行われなければならないと思うのです。この発想を水から学ぶのです。水は水平になるのです。
それだから、趣味に生きるという事は、大きく思えば、理想の社会になる一歩ではないかと思える歳に私はなっているのです。このような目指す社会は、否定や差別、また犯罪も存在してはいけないのです。すべて、民族と皮膚の色と伝統が異なる人たちが、共同体を作る内容なのです。話は、水に戻るのですが、景色の良い所は水があります。樹木もあります。それが、水との調和です。水は形態を持っていないし、個性はありますが、形態が無いのです。何を入れても、そこに合わせるのです。水に対する哲学を会得しようとしているのが、最近の私かもしれません。あらゆる我欲が無くなってきているのですが、調和した組織、調和した社会を築こうとするのが、今の私の役割であり、使命でもあり、摂理なのです。