2014年11月13日(八段語録2233)
仙台に生きる

 自然を愛するのは何のためかというならば、人を愛する為です。人を愛するという事は、別にストーカーという訳ではありませんが、所有権を決定することを意味します。今まで私は何を得たかというならば、父親という事で子供の所有権を得ました。所有権を決定してから、どうなったかというと、父親という各位ができました。さらに、親子という秩序ができました。もちろん、その前に妻を愛して、所有権を決定し、そして、夫という各位を得ました。また夫婦という秩序ができたのです。この各位、秩序を守るためにも愛情を注ごうとするのが私の意志です。このような大切な宝を獲得したからには、不倫や浮気などで、失う事をしないのです。
 さて、自分の少年時代を振り返ってみると、よく遊びました。川の中の魚を追いかけました。畑の苺を、よく食べに出かけました。そして、トンボや昆虫や、あらゆる動物を捕まえるために野を駆けずり回った経験があるのです。土の中に何があるのか、この輝く石は何なのか、植物を、動物をと何でも追いかけようとしたのです。とにかくあらゆるものに好奇心を抱き、探求したことを思いだします。この町仙台は、私が探求した町として、今でも心の中に残っているのです。遠くは八木山、泉ヶ岳、近くは、与兵衛沼、七北田川、蒲生海岸と、行かなかったとことは無いのです。
 ところで、自然に触れて、どうであったかという事を振り返ると、自然を自分の物としたという事になるのです。こんなにも、行動範囲を広げて愛情を注いだという事を思えば、今の子供達には、まるっきりない世界のように思います。それだけ、自由であたし、健やかな環境であったと思うのです。いくら私が変わらない理念を主張しても、まただだ、走り回っただけでは何もないのです。自分の理念には深く染み込んでいる気持ちがあるのです。心が通じる立場に立っているからこそ、連結でき、物、体、心、すべてが最高位のものとして、自分の気持ちの中で整理できるのです。
 そういっても、今日の新たなる出発をしようとしているのです。朝を迎えて、やはり、少年時代に経験した、自然を愛してきたことが、仙台を自分の懐に抱くことができ、自由に環境を主管できるような気がするのです。今は、空手道という道を切り開いているのですが、私の代で、どのような事を提示できるのか、まだ修行中ですが、それでも、思いのままに、自然を愛した土台の上に多くの道場生を愛していこうと思うのです。その理由は、各位と所有権と主管力を得るためであろうと思えるのでした。