2014年11月9日(八段語録2228)
雨の日の大根の収穫
自然の恵みで、大根が大きく育っていました。大きいものだと長さが一メートル近くあります。巨大大根に困惑気味に、まじまじと見つめていました。早速、用水路で泥を落として、真っ白にして、天日干しにするように、物干竿のよりちょっと強く作っている竿に、大根掛けをしてきました。また、畑を覗くと、二か月前に植えていた人参が、芽を出していました。一週間前には、まだ芽が出ないので、今年の人参は、作付けが悪くて、だめだという判断でした。しかし、どうしたことでしょうか。しっかり育っていたのです。一冬を越せば、大きな人参になると、今から期待が大きいのです。ここからの教訓は大きいのです。
さて、皆さんは、公的な物と、私的な物を、必ず秩序をもって区別しなければなりません。区別するという意識の過程を経て私的な物と公的な物を明確にし、確固たる原則を中心として生きることができなければならないのです。ところで、見てみると、大概は逆さまになっています。私的な物は大切に思い、公的な物はないがしろにします。武士道の基本は、それでは決していけないということです。道場生の皆さんは、公的な物を大切に思うことができなければならないということです。つまり、公的な物ほど、より重要視しなければならないのです。そのような姿勢に、より責任を持っている指導者は感動するのです。それは、そこに価値があるからなのです。
ところで、そのような発想をするならば、物よりは人ということにもなります。また、公僕としての、生き方が示されなければならないのです。そして、人の中でもより責任を持っている人なのです。そう考えると、私が着ている一着の服も、私が持っている生活基盤ももちろんであり、私が持っている体も私のものではないというのです。そうすることによって、自分が無限の価値があるという根拠が現れるのです。なぜなら、公的な自然界を生活の要素として暮らす「私」の体が無限の価値を持つというのです。そのような無限の価値を持っている自分を私的にしか表現できない人が余りにも多いのです。指導者が、このようなレベルでは、誰もついてくくることは無いということです。
結論として本気で、そのような自分が無限の価値の公的な存在であると分かる時、「私」はその公的な価値を持って、社会に貢献するのです。「私」自身は公的な自分か、私的な自分かという事が、問題になります。公的に評価されるには、「自分の物」という概念を超越しなければなりません。今後、社会で生きていく為の処世術です。自分という事を一般社会では、最小限度にして、公的な存在であるという概念が定着するならば占めたものです。そこから、活用される道が開かれてくるのです。自分を主張して、給料をこの位は貰わなければならないと主張すると、結局、どんでん返しになります。あくまでも、貢献度によって、責任ある人が、考慮して決定するものなのです。