2014年11月6日(八段語録2225)
環境破壊
最近、地球温暖化や環境破壊が急速に進んでいます。環境に対して、愛情を持って接していないということなのでしょう。目先の利益のみを追求することによって、自然は破壊されていくのです。人が愛情の関係の中で、環境から尊敬されるような関係が生まれるとするならば、問題は無くなるのです。そのようなところから、自然が破壊されずに本然の状態にとどまるようになると思うのです。ようやく、地域の美化運動も盛んになり、子供達もゴミ袋を持って、道路や公園のごみ拾いをする姿が多くなってきました。このような傾向が生まれてきていることはうれしいばかりです。また、行楽地でも、ゴミを持ち帰ってくるような姿勢が表れているのもうれしいことです。サッカーのワールドカップでブラジルの会場での観戦の後、ゴミを拾って帰る日本人に賛美の声が上がっていました。そのような、心構えが、環境破壊を防ぐようになるのではないかと思うのです。
さて、極真空手道の修行の基準は、環境の事を考える余地が無かったとも言えます。道場での稽古だけがすべてという発想からは、環境破壊は止めらません。ましてや、自然環境に関心を持たない道場での修行は、無理があります。正しい人格を形成することができないばかりか、ただ強くなろうとするところからは、偏った人格しか見出すことができないという事にしかならないのです。例えば、皆さんが着る服や一つ一つの必需品までも自然から生まれたものです。人が使っている日常生活のすべてが、生活に溶け込んでいるのです。そのような訳で、自然は大切にしたいものです。
ところで、修行する立場での自然環境に対する考え方は、公的関係を結ばなければならないという事になります。そうすることによって、万物の霊長という特別な価値を持って生きることができるのだと思うのです。自然から育てらてられている人間です。つまり根っこが自然であるというのです。この関係を大切にしてこそ、人の価値が決定されるのです。それがすなわち、人の心の問題という事になります。この観点に立っている人があまりにも少ないのです。この気持ちが断ち切れているということです。そのような意味で、極真空手の修行をするという事は、新しい理念を持って暮らさなければならないということです。
結論として、自然環境は病んでいるし、破壊の方向に向かっているのです。これを止めなければならないというのが、私の主張です。自然環境は、公的な法度によって管理されるようになっています。人もまた公的な法度によって生きているのです。そのような意味では、自然を公的なものとして統治することができる指導者が生まれてこなければならないのです。中国の大気汚染は、あまりにも、不自然な統治としか言いようがないのです。道場生の皆さんは、このような原則をしっかり知って、行動するならば、環境問題に一石を投じるようになるのです。