2014年11月2日(八段語録2221)
極真空手道は自然との調和のため
痛みとは一体どうして起こるのでしょうか。私達の器官に応じて、バランスを取る、ある一面が破壊された時に、それを早く是正しなければ、自然は「お前は、共存原則において不合格」であると言いながら追い出すのです。その追い出すゆえに痛みを感じるというのが私の主張です。進化論的発想で、適応したものだけが生き残るという発想では、空手道とはちょっと関係なくなります。あくまでも、構造が合うものが進化論形態としてあっているだけで、根本は、そうではないということです。概念が先か、実在が先かというときに、実在が先であると言って唯物論ができたのです。ですから、何かを創造していく方が先であるという主張から、概念が先でなければ、創造や夢や希望などあったものではないのです。
さて、極真空手の精神は、進化論的な発想ではないのです。あくまでの造化の創造が事実でなければ、人の欲望が方向性を持って実現していくという事に不可解さを感じるのです。自分が働きかけることによって、自分を創造し、新たなものを作り上げるという発想でなければ、混乱してしまいます。あくまでも自然にそうなっていくとするならば、勝手に進化するのだから、人の努力がどうのこうのという事ができなくなってしまいます。あくまでも、プラスさせられるか問うことです。それが生み出す力のなるということなのです。極真空手は、実に自分を鍛えます。それは、自己創造という事になるのです。
ところで、人間が自然に対して主体的に働きかけるという概念でいます。人間と自然は、間違いなく主体・対象の関係を持っているのです。そうでないのはないのです。この関係があるので、私も自然から追放されることなく、今も生きているのです。そして、自然を切り開き、人々の幸福を環境整備として整えているのが科学という事になるのです。科学は人間生活において、手段であり、これそのものを目的にするわけではないのです。人は、精神と肉体を持っているので、両方が満たされなければ、幸福と言えないのです。あくまでも、価値ある、人生を生きるためには、魂を磨かなければならないという事になります。そのような意味でも極真空手の意味は大きいのです。
振り返って、私の極真会館での歩みはなんであったかというならば、たえず、自分を創造していく歩みであったということです。何もしないで今に至ってはいないのです。日々努力を重ねて、自分を創造してきたということです。そうすることによって、新しい自分を見出し、より本質的な自分に近づくことを夢見たということです。自然には限りない神秘さがありますが、私自身にも、自然の神秘さに共鳴するようなところがあるのです。これからも無限な可能性に向けて挑戦できるのも、自然に近づこうとするからなのかもしれません。私と自然との調和によって、より可能性ある生き方をしようと心掛けるのも、この年齢であるからだという事かもしれません。