2014年11月1日(八段語録2220)
自然と人

 自然の運動は、力の作用の原則によって始まりました。ですから原則に一致しなければ擁護されないという事になります。自然に合わなければ、人も不合格になるのです。たとえば、自然に合致しない例として、夫婦共々仲が良くても、結果的存在の子供がいなければ、不幸だということも言えるのです。なぜならば、自然の法則がそうなっていて、子孫を繁殖させているからなのです。自然に人が合わなければ欠陥という事になるのです。また、喜びはどのように生じるかということも考えなければならないのです。例えば、心の要求に体が応じる時に生じます。自然の法則に合致すれば、自然との距離が次第に短縮されるので、喜びが生じるのです。
 しかし、良心の呵責を感じる事をして心の相対要素が無くなるときは、結局その主体まで無くなってしまうのです。自然の原則というものは、主体だけがいると、対象が反対しなくても追い出す力が必ず現れるようになっているのです。それが悲しみとして現れるのです。喜びと悲しみは、間違いなく「私」原因として現れるのです。胸が痛むほど悲しい事がありますが、それはなぜ悲しいかということです。どのような力が「私」に作用して悲しくなるのでしょうか。それは、自然の法則の為だという事でしょう。この自然の法則に一致できずに反対になれば、除去されるということです。自然の力の反対方向に押し出す力が大きければ大きいほど、喜ぶことができないということです。
 さて、夫婦が一緒に暮らしていて、一人が先に死ねば、涙を流します。それは自然の法則に不合格の基準となり、自然の原則が押し出すようになり、そのようにならば悲しみの強度が高まるからなのです。そう考えると、喜びはどのように生じるかというならば、自然の法則に一致する自分になれば、自然の力がかき抱こうとするのです。その力が大きければ大きいほど、強く抱きしめるようになり、強く抱けば抱くほど、その人は精神的な人に入っていくので、喜びが来るのです。ですから、何度も言うようですが、悲しみと喜びは、自分自身から始まるのではなく、これは自然の原則、すなわち自然の法則として起こるのです。
 だから、何を月初めに言いたいのかというならば、共存する自然を見つめれば、そこには必ず和合作用と反発作用があるということです。和合作用はより大きな所に和合しようとします。私達の心も和合しようとするのですが、より大きな所に和合しようとするのです。自然と一致する生活するのであれば、必ずや喜べる生活ができるということです。その事を肝において極真の修行をするならば、人生は豊かになります。決して、心を偽って生活することが無いようにすべきであると思うのです。