2014年10月31日(八段語録2219)
自然の本質を家庭の拡大した存在と見る

 家庭を宇宙の縮小体という観点で、自然を見るという事は、不思議であろうと思うのですが、それでも、この見方が、面白いと思うのです。私は勝手にノーベル賞的なものの見方であると思っているのです。家庭を見れば、縦の関係の上中下があり、左右があり、前後があります。これが原則になって、うまく調和しているのです。もちろん、上下というときは、父母と子女を意味しますし、左右というときは、夫と妻を意味し、前後というときは兄弟を意味するのです。このような家庭が調和するときには、一般常識や経済力さらにそれなりの求心力が必要になってきますが、それだけではないのです。家族愛というものが絶対条件として必要になってくるのです。
 さて、このような事を考えて宇宙を見上げると、相似形に色々なことを考えるようになります。星座の事や、球形に広がっていく夜空だったりして、家庭が愛情でつながっていくとするならば、宇宙は愛情に接することができる教材であるという事でしょう。宇宙も愛情の法則の中にあるとするならば、この世界がどのぐらい一定に変化することでしょうか。もちろん変化しているのです。春の季節に「チュンチュン」と鳴く雀を見る時、あのように元気で家族があるのかなと、雀と自分たち家族の事を考えます。また燕が餌をくわえて自分の子供に食べさせているのを見ると、あのように子供に尽くしているかなど考えるのです。
 ところで、鳥の世界を垣間見ても、母親が、お腹いっぱいでもう食べることができないから、子供たちに食べさせてあげているのでしょうか。よくよく見ると、自分がお腹をすかせていても、えさをくわえて食べさせているように見えるのです。人の世界において、このような愛情の法則をどこで見つけることができるでしょうか。先生からも、総理大臣からも、妻からも見つけることができなくなっているのが現実かもしれないのです。しかし、父母が子女を愛するところにはまだ、残っているのです。それが大げさに言えば、人類が滅びない理由なのかもしれません。
 とにもかくにも、人がいくら優れているからと言っても、春夏秋冬、四季に順応しなければならないのです。自然に歩調を合わせなければならないのです。春になれば春の服を着なければならず、着替えなければ支障をきたし、破たんが起こるのです。冬になれば冬の服に着替えなければならないのです。同じように人が、自然の法則に従って、その環境と境遇において順応するだけでなく、合わせることができてこそ、天地の保護を受けるようになるのです。そこで生き残ってこそ、生命体としての永遠の自然の前に、存在していることができるのです。そのような意味では、家庭をしっかり形成しているとするならば、自然は歓迎してくれるはずだし、主人になれるのではないかと思うのです。