2014年10月30日(八段語録2216)
自然はしっかり存在している

 誰もが認めることを言っているのです。そして、存在するためには、力がなければならないのです。そこで哲学的に力が先か存在が先かという事になります。力がなければ、存在もありません。力は作用がなければ現れません。力が存在する前に必ず作用が必要です。作用しようとすれば、力の前に先行条件として主体と対象が必要になります。主体と対象が、ギブエンドテイクの関係から作用が始まり、作用が始まるところによって力が存在するのです。例えば、電気の作用は、電気の力ではないのです。電気自体でもないのです。プラスとマイナスは、与えたり受けたりする作用をしますが、そこに電気という力の流れはまだできていないのです。作用を通じて力が出てくるというのです。
 自然は確かに存在しているのですが、自然環境は必ずと言っていいほど、主体と対象があります。これは当たり前に、存在の法則のようです。これが備わらなければ、存在できないのです。もちろん中性はあると思いますが、どっち道どちらかに傾きます。要するに、正午になれば、太陽が真上に来て、影が見えなくなります。しかし、影が消えたわけではないのです。自分自体の中に入っただけです。このような説明が説明になっているかどいうか分かりません。
 結局、自然の形成において、力が先か作用が先かというとき、必ず作用が先になるということです。作用するときには独自的にすることはありません。作用するためには、必ず相対関係にならなければならないのです。その相対関係は同じレベルでは動きません。私が損するだろうというのでは作用しません。発展するだろうという立場で主体的に与えても喜ぶことができ、プラスになる環境条件を見つめながら、与えるようにならなければ作用しないのです。主体とは何でしょうか。先に与える立場です。ですから、主体は責任を持たなければならないのです。また保護しなければならないのです。また育成しなければならないのです。これが認定されなければ、作用は起こらないのです。こうして自然は形成されるのです。
 そのような理屈を考えて見ると、自薦環境は、循環しながら発展するようになるのです。今まで、数億年間続いてきた永遠の自然の法則とは一体何かを考えると、その共通法則を人間に当てはめるならば、男性と女性という事でしょう。すべてが相対の関係になっているということです。何万年、何億万年変わりなく続いているのです。それが何かというならば、互いに次元は異なりますが、存在を守るような深い愛情という事になるのでしょう。この概念で、後継者を残していくのです。それが自然界に残っている中心法則という事になるのです。この内容は誰も征服できないし、革命もできないということです。