2014年10月29日(八段語録2215)
自然の根本

 私の勝手な判断ですが、宇宙の中心を家庭に置くと、今までの東洋思想と合致するのです。宇宙を家庭の中心として置くと、自然は全て教材という事になります。人を中心として自然を考えるのが、合理的な発想という事になるのです。人は、成長すればするほど、すべて自然を見て習得します。月が照らし、星が光る今日のような秋の夜に耳を澄ませば、昆虫がオーケストラのように演奏をしているのです。何を中心として鳴いているかというならば、相手を探して、理想を歌っているのです。ささやいている音が虫の音という事でしょう。鳥や他のすべての動物も悲しい鳴き声、喜びの鳴き声を、コーラスのように、響かせているということなのです。
 さて、人間を中心として考えるのですが、生まれる前は、母の腹中が宇宙です。生まれてからは、宇宙が第二の腹中ということにもなるのです。宇宙という母の腹中で生きているという見方もできます。ですから、母親の栄養素を貰うのと同じように、宇宙のすべての栄養を貰って生きるのです。ですから、宇宙は人間に栄養を供給していると考えるのが原則的であるのです。話はちょっとそれるのですが、脳死状態になった、息子が、他の人の臓器になって喜んで、息子が生きているように感じる親がいます。それは自然の気持ちなのでしょう。それと同じように、存在物はより高い次元に同化したいという願いで、より次元の高い存在の体を通じて、新たな各位の位置に立つという事は、人の体の細胞になれるという事は、良いことのように思っているに違いないと思うのです。
 ところで、今回のテーマである、自然の根本は一体なにかということです。科学者からすれば、自然は力の集合体という事になるのでしょう。もちろん、人は、心と体が作用して成長します。ここでこの人が男性の場合、女性を求めるはずです。そうすると、力の前に恋する心が生まれるという事になります。また、恋人を持って感じる事は、相手の為に生きようとするところから、投入するところから出発します。つまり消耗するところから始まるのです。それで、自分を消耗して、相手を作り、何をしようとするのでしょうか。最終的に家庭を作ろうとするのです。愛さえあれば、一日中会社で働いても、家に戻ろうとするのです。
 結局、投入するという事は、損なのですが、消耗する代わりに、愛の巣である家庭を獲得したと考えるのもいいのではないでしょうか。仕事で消耗しきっても、家庭に戻れば、次第に小さくなるのではなく、大きくなっていきます。家庭にはすべてのものを満たして余りある力があるので、消耗しても、喜ぶという事になるのです。家庭には創造の能力があるので疲れないのです。そのような意味で、自然の根本は家庭であると結論づけたいと思います。その、家庭のイロハを学ぶのが、極真精神であると断言するのです。