2014年10月28日(八段語録2214)
自然の意味
人が生きることができるのは、環境が必要です。このような環境を通じて、衣食住を満たして、成長するようになるのです。人が栄養素を取るのも、強制ではないのです。自動的に自然環境が、その人に摂取され、順応していく事によって、人の精神と肉体が成長していくようになるのです。ダーウィンの突然変異説や弱肉強食という理論とは、ちょっと違うのです。あくまでも、人間が自然環境を活用して、成長していくという主張を取らなければ、極真空手で、修行していくという事の意味合いを見出すことはできないという事になります。
その事を、例を出して説明していきます。南極のペンギンの話をしようと思うのです。海辺で卵を産むものや、群れを作って百マイル以上離れた地域に行って卵を産むものもいます。距離を移動する者は、暴風雨が吹いても巻き込まれず、遠い距離をその足で歩くのです。メスは卵を産み、それを自分の足の甲に乗せて抱きます。足を動かしながら家をこすりつけて温度を保ち、ヒナをかえすのですが、何か月もそのようにしているのです。そしてヒナをオスに渡すと、オスは餌を思う存分食べておき、ヒナに食べさせてあげるのです。そのような姿は、ヒナを宿したメスよりもお腹が膨らんでいるのかもしれないのです。そこで、距離を移動するペンギンが滅びたかというならば、そうではないのです。
このような子育ての姿を見ると、弱肉強食の概念で説明がつかないのです。かつて私が学んだ唯物弁証法は、全てを闘争の概念、階級概念として考えました。上下関係は主体と対象の関係なのですが、闘争概念だけであった、ここでは主体と対象の概念がないのです。自然界は闘争しているという事です。大きな目的を中心として、環境が動員され、理想的な人間として成長できるという発想がないのです。唯物弁証法では、自然界は敵という概念でとらえたのです。そこから適者生存の理論が出てきました。適切な環境において残れなければ、生存は無いというのです。そのような概念では、人の成長を見守るということもできなくなってしまいます。
結局、マルクスやレーニンは結果的なものだけを見たのです。人間の心の世界を見ても、闘争しているというのです。闘争の概念が自然の中から始まったとみたので、いい加減な結論しか出なかったのです。人は成長して家庭を持って、愛情を求めていく実体という事、考えることができなかったのです。絶えず闘争の概念として捉えたので、安心のできる豊かな人生という事が発想することができなかったのです。自然の中で、例えば鉱物は、植物に、植物は動物に、そして、結局は、自然は、人間の為になっているという事を理解できたら、自然を大切に扱う事ができる人間になるのではないかと思うのです。